第25章ー13
1568年4月下旬、エジプトの情勢は一気に緊迫化してしまった。
浅井長政がオスマン帝国への蹶起を決断して、更にこの蹶起を周囲に指嗾したことから、エジプトにいる日本人の殆どがそれに同心し、更にエジプトの住民の多くがこの動きに加担する事態が起きたのだ。
更に言えば、スエズ運河建設会社の現地エジプトにおける長は丹羽長秀であり、その警備隊の長は柴田勝家である。
そうした中で、この二人の旧主筋に当たるお市(浅井長政の妻)からスエズ運河建設会社にオスマン帝国に蹶起することへの協力要請があったのだ。
丹羽長秀も柴田勝家も(大袈裟に言えばだが)、
「お市様の仰せのままに、積極的にオスマン帝国への蹶起に協力しましょう」
という態度を示したことから、スエズ運河建設会社の警備隊の武器庫が速やかに開かれて、この蹶起運動の武装化は迅速に進んでしまった。
そして、こうなってくるとエジプトにいるオスマン帝国の官僚の抵抗にも限界が出てくる。
何しろ、エジプトにおけるオスマン帝国の官僚のトップであるワーリーは、ソコルル・メフメトがエジプトを去って以来、1年程で交代していた有様なのだ。
数年に亘ってエジプトに地盤を築き上げてきた日本人達への地元住民の支持と比較すると、地元の住民の支持を頼りにして自分達が抵抗するというのが不可能とは言わないが極めて困難なのが、オスマン帝国の官僚には見えてくる。
更に日本人とその支持者たちの武装化は急であり、本来ならそれを鎮圧する筈のエジプト駐在のオスマン帝国の軍隊は、ソコルル・メフメトがエジプトを去った後は、それこそエジプトの治安維持に最低限必要なまでに削減されていたままだった。
(これはエジプトのワーリーがエジプトの経済力を背景にしてオスマン帝国への反抗を行うことを、ソコルル・メフメトが率いるオスマン帝国中央政府が警戒したことから起きた事態だった。
後々のことになるが、ソコルル・メフメト自身が、まさかこのような事態になるのなら、エジプトの軍隊を増強しておくべきだった、と臍を噛む事態だった)
こうしたことから、万を超える軍勢(しかも日本製の進んだ武器で武装した)が、自分達を取り囲む事態が起きては。
自分や家族の生命が保障されるのならば投降する、いや、積極的に浅井長政殿らに協力しましょう、と命惜しさもあったが、エジプトにいるオスマン帝国の官僚や軍人の多くが行動する事態が起きたのだ。
このために浅井長政らのエジプト制圧は電撃的な速さで成功することになり、1568年4月一杯でほぼエジプト全土が浅井長政らの制圧下に置かれることになった。
それに伴い、暫定的な代物にはなるが、浅井長政はエジプトのカイロに仮政府の本庁を置いて、エジプトの統治に取り掛かる事態が起きた。
浅井長政の味方になることを誓った旧オスマン帝国の官僚に加え、かつて日本で官僚の役割を担っていたと言える国人や地侍が参加したこの仮政府は、急ごしらえもいいところではあったが、それなりの統治能力を持っており、エジプトの多くの住民に対して、このまま浅井長政が統治しても良いのではという安心を与える代物ではあった。
とはいえ、これは火事場泥棒に成功したようなもので、オスマン帝国政府にしてみれば、この状況は断じて認められる代物では無かった。
そのためにオスマン帝国政府はエジプトを改めて自らの統治下に置こうと軍隊を動かすことになり、一方の浅井長政らもこのままエジプトを独立させようと軍隊を編制して動かすことになった。
だが、お互いに距離等の問題から軍隊を編制して移動させるのも一騒動になった。
このために時間が空くことになり、日本本国も動くことになる。
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