第25章ー3
古スエズ運河再開削に伴うエジプトのナイル川流域における大規模な堰や(主に農業用)水路の建設や維持だが、その多くが地元住民の賦役で賄われていた。
そのためにエジプトの住民としてもこの賦役に対する見返り、自らの増収を求める心理になっていた。
それもあって、積極的に浅井長政に対して、エジプトの住民(中でも農民)が農業指導等を求めることが多発していたのだ。
尚、この際に半ばついでに説明しておくと、このエジプトにおける農業用水路だが、日本で一般的に思い浮かべられるような農業用水路とは少し異なる代物が主要部の農業用水路では圧倒的多数になる。
日本の場合、農業用水路から水門等を開ければ、自然と田畑に水が流れ込むことが多いが。
エジプトの場合、渇水期でもナイル川の流れを活用する必要性や農地の塩害防止等のために田畑を高くして、主要部の農業用水路は低部を流れることが多い。
そして、主要部の農業用水路から末端の農業用配水路に、サキヤと呼ばれる畜力を活かした水車等によって水を汲み上げて田畑に水を供給するのだ。
また、こういった大規模な堰や水路によって灌漑が行われるようになった新たな農地は、これまでエジプトの農民が親しんできたベイスン式農業とは異なるやり方の農業が当たり前になる。
何しろベイスン式農業では、毎年起きるナイル川の洪水によって、ナイル川上流の肥沃な土が自然にエジプトの農地にまで運ばれて来たのであり、また、病虫害の大規模発生もそれで阻止されてきたが、この新たな農地ではそういった事態は起きなくなるからだ。
このために新たな農地では、輪作によりマメ科の植物を栽培して土地を肥やしたり、また、それを家畜の餌にして、家畜を育てる一方で、その糞を肥料にしたり、また、病虫害対策の普及が必要になったりという事態が発生する。
そういった新たな手間暇が農作の際にかかるようになった一方で、エジプトにおいて綿花やインディゴ、サトウキビといった商品作物の本格的な生産が行われるようになったことは、エジプトの農民の収入を基本的に増やし、また、稲作の拡大はエジプトの農民にしてみれば、麦に頼ってきた主食について、米食も行えるようになったということであり、飢餓のリスクを軽減することにもなった。
こうして、エジプトの農業の大規模な発展が、浅井長政を中心として日本から来た面々が指導することで起こったのだ。
農民が綿花やインディゴ、サトウキビを生産するようになると、農民は買い手を探す必要が出てくるが、その点にも抜かりはない。
日本から来た面々は、インド株式会社を中心とする日本の商人にまずは渡りをつけて、更に日本の商人が、それこそ日本本土や日本と通商している友好国の商人に売り込みをかけてくれるからだ。
特にインド株式会社は、本来の浅井長政の所属先でもあることから、こういった商売の仲介に積極的で、それでさらに利益を自らも稼ぐ現状が起きていた。
そして、エジプトの農民の懐が豊かになれば、肥料や(自然)農薬をエジプトの農民は積極的に買うようになり、これもまたインド株式会社等の商人を富ませることになっていた。
こうした背景が浅井長政にあることによって、エジプトの農民層の間では、浅井長政の人気が高まる事態が起きていたのだ。
更に浅井長政が風采の上がらない中年ならばまだしも、傍に美人の似合いの若妻(お市)がいる好感の持てる若人であり、夫婦仲睦まじく子どももいる、ある意味では理想の若夫婦という家庭を持っていることもエジプトの農民たちの間で好感を持たれる要因だった。
もっとも、だからこそ木下藤吉郎らにしても浅井長政をお神輿とすることを考えていたのだ。
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