第4章ー7
三好長慶としては、いわゆる元寇の故事に倣い、皇軍の上陸が予想される海岸に石塁等を築くことさえも考えていたのだが。
大阪湾のどこに皇軍が上陸してくるのか分からなかったことや、更に島津家から近衛家に送られた密書の内容から、2月前半には皇軍が上陸してくると推測されたことから、そんな石塁等を築く時間は無い、と判断せざるを得ず、石塁等を築くことを三好長慶は断念していたのだ。
そして、自分の考えた最善の作戦として、自らが直卒する約5000の兵を、いわば陸上の機動打撃部隊とし、皇軍が上陸作戦を展開した時には、阿波水軍や和泉水軍と協働して海陸から挟撃して皇軍に勝とう、と三好長慶は考えたのだ。
しかし、阿波水軍や和泉水軍が、事実上寝返ったことで、作戦の前提が覆ってしまった。
すると、すぐに次の作戦を思い付くのが、三好長慶の非凡なところだった。
「越水城を棄てて、山崎に兵を集めて、乾坤一擲の決戦を挑む」
三好長慶はそう呼号し、足利義晴や細川晴元に、その意見を奏上した。
2万を超える大軍が上洛を企てているととなると、地形上、その進路は極めて限られたものとなる。
三好長慶が見るところ、須磨海岸に上陸した皇軍が上洛するには、基本的に大阪湾沿いに進み、更に淀川沿いに転じて、京に向かうしかない筈だった。
勿論、一部を割いて、石山本願寺等からの攻撃を警戒する必要も、皇軍にはある筈だ。
三好長慶は、須磨海岸から京の都までの皇軍が通る筈の進路の地形を勘案した末、我々が勝利を収めようとするのに、最善の作戦は山崎決戦しかない、という判断を下した。
山崎の地は天王山と男山に挟まれ、更に淀川がその間を通るという隘路である。
皇軍が上洛しようとするならば、この地をどうしても突破しなければならない。
「山城、摂津、丹波、河内の諸国から集めた兵を、ここに搔き集めて一大決戦を挑むのが最良である」
三好長慶の頭脳は、そのように考えた。
実際、その判断は、地形やお互いの戦力から考えれば、基本的に間違ってはいなかった。
だが、皇軍の将兵が足利軍が戦いを挑もうとしている地を察知した時に、最初に頭に浮かんだのは全く別の歴史的ないわれだった。
なお、三好長慶はその事を全く知らない。
何故なら、そのいわれは、今から40年余り後に起こったことだからである。
そう、史実なら、そこで、織田信長に謀反を起こした明智光秀は、羽柴秀吉らに敗れ、天下を失うのだ。
少し先走った話になるが、足利義晴らが山崎において、皇軍を迎え撃とうとしているのを知った近衛師団長の武藤章中将は、
「山崎とは、主君の織田信長に謀反を起こした明智光秀が戦に敗れて、天下を失った所ではないか。
天皇陛下に逆らって、苦しめ抜いた足利家に相応しい場所だな」
と言って、皇軍が必勝するとの決意を固めた、という。
それはともかく。
足利義晴も細川晴元も、そして、それに味方する武将、国人衆も、三好長慶からの書状を受け取ると、その判断を諒とした。
何故なら、彼らの多くも、それなりに戦の経験を積んだ面々であり、自らの頭で考えても、三好長慶の判断が極めて妥当である、と考えざるを得なかったからである。
かくして、三好長慶は麾下にある軍勢を率いて、山崎への移動を(実際には事後承諾で)開始することになり、そして、三好長慶に味方する摂津の国人衆も、それに参加したことで、山崎には摂津衆、約8000人余りが集うことになった。
更に山城、丹波、河内等からも国人衆が集い、足利義晴や細川晴元も着陣したことで総勢は実数でも3万に達することになり、4万と号する大軍が、皇軍を阻止しようと山崎に結集した。
ここに皇軍と足利幕府軍の決戦の時は迫った。
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