第24章ー3
少し横道に入り、本編ではまだ語られていなかった「皇軍来訪」直後から現在に至る近江情勢に関する説明になります。
1月半ば、上里勝利は自分なりのオスマン帝国との関係を含むエジプトの情勢分析を行った上で、縁者になる浅井長政夫妻と半秘密裡に会っていた。
(勝利の姉の織田(上里)美子は、浅井長政の妻お市の兄の織田信長と結婚している。
そう言う関係で、勝利と浅井長政夫妻は縁者になる)
浅井長政夫妻は二人揃って勝利の言葉に耳を傾けてはくれたが、表情は共に苦渋に満ちていた。
勝利の言葉が一段落した後、長政が口を開いた。
「勝利殿の言葉は分かります。しかし、私どもにも事情がある」
その横でお市も夫の言葉に肯いていた。
長政は、自分達の事情を縷々説明した。
以下は、その要約になる。
2年前の1566年に古スエズ運河再開削を果たした後、日本はオスマン帝国と話し合った末に、スエズ運河建設という大事業に乗り出している。
更に言えば、それ以前からエジプトの農業改革、ナイル川対策に浅井長政夫妻は乗り出していたのだが、想像以上の問題が発生してもいた。
こうしたことから、日本から人を呼び寄せることになったのだが。
ある程度は止むを得ない話になるが、こうした場合はどうしても縁故を頼って人を呼び寄せることになるのは仕方のない話だった。
そして、浅井長政は近江の出身であり、お市は尾張の出身という現実がある。
更にそれぞれが地元では、それなりに知られた一族の出身だった。
まず、浅井長政は元をたどれば国人階層の出身となるが、一時は北近江の国人一揆の旗頭を務めた浅井亮政の長孫になる。
更に言えば、この国人一揆は北近江守護を務めていた京極氏のお家騒動に起因するものだった。
そして、この国人一揆には、南近江の六角氏や越前の朝倉氏が介入するという事態が起きた。
そして、京極氏のお家騒動が完全に鎮まる前に「皇軍来訪」という事態が起こり、それに伴って南近江の六角氏の族滅という事態が起きている。
また、ほぼ同時に浅井亮政が病没して、浅井氏自体に亮政の庶長子になる浅井久政と亮政の嫡女を娶っていた田屋明政の間で後継者を巡るお家騒動が起きるという事態まで更にあった。
この京極氏と浅井氏が絡み合った騒動だが、「皇軍来訪」という異常事態、更に六角氏の族滅というすぐ傍で起きた事態も相まって、最終的には浅井氏については、浅井久政が浅井氏の惣領となり、田屋明政は浅井氏の筆頭家臣になるという妥協案でケリがついた。
また、京極氏の御家騒動については、京極高吉が京極氏の惣領となった。
更に言えば、この時はまだ産まれたばかりだった浅井久政の娘(後の京極マリア)と京極高吉が婚約をして、京極氏と浅井氏は公に和解するという半ば茶番劇まですることで、1542年中に北近江の混乱は収拾することになったのだ。
だが、この茶番劇は後まで尾を引く事態を引き起こした。
この京極氏と浅井氏の連合は、南近江にまで徐々に影響を及ぼすことになった。
何しろこれまで南近江で最大の勢力だった六角氏が族滅されてしまったのだ。
南近江に残された国人衆の勢力は、どんぐりの背比べといった感じになり、結果的に近江で最大の勢力を誇るのは浅井氏と京極氏の連合になった。
更に近江は六角氏の族滅という事態もあり、国司が京都から派遣されることにもなった。
こうした状況から、近江の国司代は浅井久政と京極高吉が事実上は話し合って出す事態となった。
このために近江を浅井久政と京極高吉が事実上は共同して統治する事態が生じたのだが、そうは言っても、この地位を長政が引き継げないことも自明となっている。
それで、長政はインド株式会社に就職して、結果的にはエジプトにまで赴いたのだが。
これはこれで、大量に近江の人材がエジプトに赴くという事態を引き起こした。
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