第24章ー1 エジプト情勢の緊迫化
新章の始まりになります。
そんなことが日本で起こり、実母のプリチャ、永賢尼が肺病に倒れたことを、1568年1月の間はずっと上里勝利は全く知らないままで過ごすことになった。
というか、勝利としてみれば、今、自分がいるエジプト情勢の方がどうにも気にかかり、それ以外のことがほとんど目に入らない有様だった。
勝利の縁者にもなる浅井長政夫妻がエジプトに赴いてから5年余りが過ぎていた。
そして、5年余りの間に、長政は妻のお市と共にエジプトの農業改革に協力者を現地で募り、更にその協力者がその輪を広げという形で、急速に自分達の名前を売って力をつけていった。
エジプトの農業改革というと、ナイル川対策がその最大の中心になるが。
それこそ、皇軍がもたらした知識に基づく日本の河川改修の技術は、この当時の世界から懸絶したレベルに達していた。
更に規模こそ違え、濃尾三川や大和川、利根川や信濃川等の河川改修工事を実地に行い、また、セイロン島でのポロンナルワのかんがい設備の復興作業に実際に従事した技術者等が多数いるのも、日本にとっては有利な点だった。
更に古スエズ運河再開削により、ナイル川の一部が紅海に流れるようになったことも、ナイル川対策が重要になった要因だった。
また、古スエズ運河再開削にも、当然のことながら日本の技術者が関わっている。
ナイル川の恵みで長年にわたって暮らしてきたエジプトの住民にしてみれば、古スエズ運河再開削を果たして、更にナイル川の流れ、水位を制御して、エジプトの農業改革を行おうとしている日本から来た技術者たちは、いつか畏敬に満ちた存在になっていった。
更にその技術者達と直に交流して自分達にその農業改革を指導している浅井長政夫妻が、エジプトの住民の間で、特別な存在になって行くのも半ば当然の話だった。
もっとも、それが僅か5年余りで急拡大したのには、それなりの裏があった。
「それなりに日本人の間でも納得のいく人選だからな」
「インド株式会社の若手幹部の一人で、更に大日本帝国全労連議長の織田信長の妹夫婦。お神輿として担ぐのには好適だ」
「若くてそれなりに有能で、更に美男美女夫婦だ。周囲から人気が集まるのも当然だ」
木下藤吉郎と蜂須賀小六はそんな会話を陰で交わしていた。
二人はオスマン帝国の統治下にあるエジプトに赴いて、そこで古スエズ運河再開削を行うことになり、更にスエズ運河の建設やナイル川の改修まで行うようになっていた。
そして、オスマン帝国の異教徒差別に二人は徐々に憤りを溜め込んだのだ。
更にこの二人の憤りには、他の多くのエジプト在住の日本人の間でも共感する者が徐々に出る事態を引き起こしていた。
こうしたことが、二人がこの際、エジプトを親日国家としてオスマン帝国から分離独立させよう、と周囲の日本人に説いたら、多くの日本人が賛同する事態を招いていた。
(更に言えば、日本が長年にわたって島国であり、日本人と外国人の交渉が歴史的に少なかったこと、更に皇軍の来訪によって急速に日本が世界の超大国化したことも、エジプト在住の日本人の間でオスマン帝国への憤りを高める要因になっていた。
世界の超大国である日本の国民が非イスラム教徒であるというだけで、ジズヤ納税等の差別的待遇を受けねばならないのは、不合理であっておかしい等という木下藤吉郎や蜂須賀小六といった二人の主張は、日本人の間で極めて共感を呼ぶ主張だったのだ)
だが、上里勝利は日本人とは言え、9歳になるまではシャム王国で過ごしており、元の血筋を辿ればシャム人になる日本人である。
そうしたことが、現実から一歩引いた姿勢を勝利は示すことになり、エジプトの現状に懸念を高めることになっていた。
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