第4章ー6
そんなことが陰であったこと等、知る由もなく、皇軍は須磨海岸への上陸作戦を、2月10日に展開した。
言うまでもなく、その主力となるのは近衛師団である。
「ふむ。須磨海岸に上陸するということは、平家や足利家が上洛作戦の際に足掛かりにした海岸に上陸するということになり、わしとしては気が進まないのだが、やむを得ない話だろうな」
近衛師団長の武藤章中将は、そう呟きながら、須磨海岸への上陸を果たした。
そして、近衛師団の各部隊は、上陸時にある程度は生じる混乱を解消した後、部隊ごとに編制され、京の都へと上洛作戦を展開することになった。
更に。
「こうしてみると、400年未来の軍隊ということがよく分かりますな」
「全くだな。こんなことが400年も経てばできるようになるのだな」
完全に毒気が抜かれたような会話を、島津忠良と貴久父子は、近衛師団を主力とする上陸作戦を、輸送船の船上から望見しつつ、交わす羽目になっていた。
なお、島津忠良と貴久父子も、完全に名目上といえるが、皇軍の一員として、島津家の兵、約1000名程を引き連れて、上洛作戦に参加はしている身ではある。
(皇軍としては、不穏な噂がある島津家を縛るための人質の意味もあって、連れて来ていた)
しかし。
「足軽連中が、完全に腰を抜かしていました。こんな船がこの世にあるのですか、と。組頭から武将達も大同小異の反応を示しています」
「それを言うなら、わしらもだろうが」
「それを言っては完全にしまいです」
忠良と貴久父子は、更なる会話を交わした。
皇軍の輸送船の一角を間借りしている、と言われても過言では無いどころか、その通りという有様で、島津家の兵達は、上洛作戦に参加して、この須磨海岸への上陸作戦を行ったのだ。
輸送船に乗り組む際にも、半ばおっかなびっくりという有様で、島津家の兵は乗り組む羽目になった。
更に、須磨海岸に向かう途中にも、輸送船の様々な設備に驚嘆させられながら、向かうことになった。
そして、今、島津軍は須磨海岸の砂を踏みしめていた。
「そういえば、島津家の兵が、このようなことのために上洛したことがあったかな」
「さて、某には覚えがありませんな。ところで、近衛家との連絡は間に合ったでしょうか」
「間に合ってほしいものだが。使僧は間に合っていないだろうな」
島津父子は、そう密談を交わしつつ、皇軍の後に続き、京への進軍を始めた。
そして。
「阿波水軍や和泉水軍の面々が、動かなかっただと。更に動く気配が無いだと」
三好長慶は、自らの居城である越水城(西宮市)において、泡を食う羽目になっていた。
近衛植家の内報から、皇軍の上洛の動きアリ、との情報を掴んでいたことから、三好長慶は、麾下にある国衆に動員を予め掛けていた。
それに、既に木沢長政との戦をしていたこともあり、足軽を含めてだが約5000の兵が、三好長慶にしてみれば越水城やその周囲には集った。
だが、近衛家の情報を信じれば、皇軍の総戦力からすれば、蟷螂の斧に過ぎない筈だ。
そう判断した三好長慶は、越水城を棄て、京へ全兵力と共に転進することを決断した。
三好長慶は、20歳程の若さだったが、それなりの迎撃計画を立ててはいた。
皇軍の上陸作戦展開時に、阿波水軍や和泉水軍の面々に海上から皇軍を襲わせ、皇軍の目が海上に向いたところで、配下の兵で戦おうとしていたのだが、その前提として、阿波水軍や和泉水軍が自分達の味方、ということがあった。
ところが、阿波水軍や和泉水軍が寝返ってしまったのだ。
三好氏は元々は阿波の国人であり、三好長慶にしてみれば、阿波水軍等は自分達に味方する筈だと判断していたのだが、その前提が崩れてしまっていたのだ。
最初は単に越水城と書いていたのですが、作者の私自身が現在のどこだったっけ、と読み返して想う有様だったので、(西宮市)と付記を入れることにしました。
この後も、余り有名でない城塞等については、同様の付記を行います。
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