エピローグー2
弟の上里勝利が帰宅するのを見送った織田(上里)美子は溜息を吐いた。
何とか弟が落ち着いてくれて助かった。
だが、弟はもう一つ難題を自分に持ち込んでいて、自分はそれに対処する必要がある。
美子は腹を据えて、難題に対処する覚悟を固めた。
「何。お市はエジプトに骨を埋めてもいい、と言い出しただと」
「初子の生まれ故郷がエジプトになるから、ということらしいですね」
美子の予想通りに弟の勝利が持参した手紙等から、夫の信長は妹夫婦がエジプトに馴染みつつあることを聞いて激怒した。
「折角、お市の頼みを聞いて奮闘した儂の骨折りを無駄にするつもりか」
信長はまくしたてた。
美子は内心で想った。
去年の秋のゼネスト騒動は、結局はゼネストの実施にまでは至ることは無く、基本的に急な賃上げを見送る代わりに様々な労働者の処遇改善を行うということでケリがついた。
(この辺りは予算の縛りという代物がある公務労働者の組合運動の成果が大きかった。
予算の縛りがあるという政府の主張に対して、それならば、せめて処遇改善をという主張を行うことで処遇改善を公務労働者は勝ち取ったのだ。
更に、それを横目で見た民間労働者も、賃上げが困難ならば公務労働者と同様の処遇改善をという主張を経営者側に行うことで処遇改善を勝ち取ったのだ)
その処遇改善の一つとして行われたのが、産前産後休暇の公的な承認と育児休暇の導入である。
この当時の日本は、それこそ外国、日本本土外への移民熱が冷めるどころか、まだ熱い段階にあった。
それこそ松平家に続け、と今川家、武田家、北条家が動いたことで東海や関八州の面々が動いたのに続いて、今度は伊達家を旗頭にした奥羽越の面々が移民を図ろうとしている時代だった。
そのために国内では恒常的な労働力不足が生じつつあり、そのために労働者の賃上げや処遇改善が積極的に図られる事態になっていたのだ。
(少し補足すると、この当時の小学校の教師の多くが(初等女学校を卒業した)女性の代用教師だった。
男性は学校を卒業した後、それこそ出稼ぎや移民等で地元を離れることが多いのに対して、女性は地元志向が強いという事態からそういった状況が起きていた。
そのために小学校の教職員組合においては女性比率が過半数を越える事態が起きていた。
そして、それを背景に織田信長が率いる大日本帝国全労連準備会傘下の教職員組合の婦人(女性)部はかなりの力を持っており、産前産後や育児休暇を公然と求める事態にまで1560年代に入って早々に日本は至っていたのだ)
このような状況が背景にあったことと、妹のお市が妊娠したこともあって、信長は産前産後休暇や育児休暇導入のために大日本帝国全労連準備会のトップとして奮闘して更に成果も挙げたのだが。
物事は信長の思うように運ばなかったというか、お市はエジプトに益々馴染みつつある現状が勝利から知らされて、お市は夫の長政と共にエジプトに当面は住みたいという手紙が信長の下に届いたのだ。
ただでさえ癇癪持ちの信長がキレるのは当然の事態とも言えた。
そして。
「エジプトにちょっと行って、お市を連れ帰るぞ」
信長はキレた余り、本当にエジプトにまで行きそうな勢いを示しだした。
「分かりましたが、往復に半年は掛かりますね。旅費等はどうするのですか」
美子は冷静に突っ込んだ。
ちなみに今の織田家の家計では、逆さに振ってもエジプトまでの往復の旅費等は無い。
(勿論、尾張の織田の実家を頼れば別だが、信長の家族関係等から信長としては、尾張の実家の財政援助は頼めないのだ)
「えーい、だから儂はお市と長政との結婚に反対したのだ」
信長は駄々っ子のように言い出して、美子は溜息を吐いた。
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