第23章ー29
少なからず場面が変わり、上里勝利視点になります。
そんなことがマンザラ湖の一方の側で起こっている頃、マンザラ湖の別の側では日本の別の技術者や作業員が様々な測量等を行う事態が起きていた。
その測量等には基本的に上里勝利が共に随行しており、その土地の行政官とのトラブルが起こった際には、文字通りに自分の身体を張って上里勝利がトラブルを押し止める事態が起きていた。
さて、その様々な測量等の背景というか、トラブルが起こった原因だが。
「言い訳にしても限度があります。これでは怪しまれて当然では」
木下藤吉郎は、勝利に苦言を呈した。
「分かってはいる。だが、スエズ運河の新たな開削等、表立って言える訳がないだろう」
藤吉郎の言葉に、勝利は渋い顔をしながら言った。
「それはそうですが。表立って言った方が良いのではないでしょうか」
藤吉郎としても、それ以上のことは言いづらい話だった。
さて、何でこんな事態が引き起こされているかというと。
既述のように、勝利自身がワーリーであるソコルル・メフメトに対して半ば直談判をした末に、新たなスエズ運河建設という提案をオスマン帝国上層部に対して行ってはいた。
更にソコルル・メフメトは、勝利に対して新たなスエズ運河建設のための予備調査を認めるという書簡を実際に出すことまでしてくれてもいたのだが。
だからといって、予備調査の現場ではこの日本の行動を素直に認めるどころか、逆に色々と難癖をつけては妨害する事態が多発していたのだ。
それは当然に起きる事態とも言えたが、それに対する対応策を公言できないのが問題だった。
まず第一にオスマン帝国の古スエズ運河再開削事業は、地元であるエジプトの住民に多大なる負担を引き起こしていた。
それこそオスマン帝国がエジプトを征服する以前からエジプトに盤踞して、エジプトの支配層を占めていたマムルークに対してオスマン帝国が多大な負担を押し付け、それに対する大規模な反乱が起きて、ワーリーのソコルル・メフメトが叩き潰す事態が起きる程にまで至ったのだ。
このエジプトの反乱の結果、マムルークの多くが族滅の悲運に至ったが、完全にマムルークが滅んでしまった訳では無かった。
ある意味、風見鶏的な判断等から反乱に加担しなかったマムルークもそれなりにいたからだ。
だが、ソコルル・メフメトは苛酷にも反乱に加担しなかったマムルークに死ねと言わんばかりの過重な負担を、古スエズ運河再開削のために与え続けたのだ。
さて、厄介なのはマムルークというのは、本来から言えば軍人奴隷という意味なのだが、マムルーク朝時代にマムルークがエジプトを統治していた結果として、マムルークがエジプトにおいては行政官等を務める文官階級の供給源にもなっていたことである。
このために反乱に加担しなかったマムルークは、エジプトの行政官としてもそれなりの力を温存しているという現実があった。
こういった事情が絡み合い、更に日本がオスマン帝国の同盟国であり、更にソコルル・メフメトと個人的にも友誼を結んでいる人物(具体的には上里勝利)までがいるという事情は、エジプトの現場においては、日本の技術者がスエズ運河建設のための簡易調査等を行おうとすると、現地の住民どころか、現地の行政官までが一体となって、スエズ運河建設のために新たな負担が押し付けられるのではないか等と懸念する余りに、日本の調査団に対して難癖をつける事態が起きていたのだ。
そうは言っても、勝利自身が乗り出し、更にソコルル・メフメトが出した書面(それも認証入り)が示されては、現地の住民等の難癖にも限度がある。
だが、そういった日本の態度が、現地住民の更なる反感も買うという悪循環が多発するということにもなっていた。
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