第23章ー28
少なからず話はズレるが。
お市が浅井長政と共にこの村に来たのは綿花、綿織物の関係からだった。
知る人ぞ知る話になりそうだが、綿花と言うのは塩害に強い作物である。
それこそ江戸時代において干潟を干拓して農地化されたばかりの土地では、米作り等は思いもよらず、綿花やイグサ作りで当面の糊口を凌ぐのが、干拓地に入植した農民の間では通例の事だったのだ。
「皇軍来訪」によって、そのことを知っていた竹中重元はエジプトの地形や気候等を勘案した末に、ベイスン農業を止めた後のエジプトでは塩害が多発すると考えて、エジプトの農民に栽培を勧める作物として綿花を推奨することにしたのだ。
更に言えば、このことは日本本国政府の意向にはやや反していたが、エジプトで地場産業を発展させて工業化を図るという観点からすれば、極めて妥当な話だった。
(日本本国政府としては、日本本国発展が第一であり、エジプトは単なる日本本国の為の資源の産地にして、欧州と日本を結ぶ運河がある土地程度にしか考えておらず、エジプトの発展、更なる工業化等は夢にも考えていなかったというのが、当時の本音だったのだ)
綿花を栽培して、それによって収穫された綿を使った綿織物を主な産業にして、エジプトを発展させて工業化を図っていこうではないか、小西隆佐アレクサンドリア支店長はそう考えていたし、小西支店長の薫陶を受けた浅井長政夫婦らもそれに賛同しつつあった。
そうは言っても、エジプトの農民の間では綿花はまだまだ馴染みが薄く、それこそエジプトの農民が着ている衣服、着物の原料になる織物の多くが、ジュート(黄麻)織物というのがこの当時の現実だった。
だからこそ、綿織物を普及させる宣伝活動が必要にもなった。
「無料でいいんですか」
「他の村等に魚を売る際に着ていただけるのなら、無料で差し上げます」
「それならば有難くいただいて、魚を売る際に着て行きましょう」
「魚を売る際に興味を持った人がいたら、素直に感想を言ってください」
「そんなのお安い御用で。いや、汗も吸ってくれるし、肌触りもいい。喜んで他の村等に魚を売る際に着て行きますよ」
お市は現在、住んでいる村に来る魚売りの面々にそう言って、綿織物の一部を宣伝用に渡していた。
お市自身も綿織物を使った服を着ている。
それなりどころではない美貌を誇るお市が綿織物を着て、村の中を歩いているのは極めて目立った。
「うーん、綿織物を着て歩いたら、私も目立つかも」
「綿織物は肌触りもいいし、汗も良く吸ってくれる。ジュートよりも綿の織物を私も着よう」
そんな感じで口コミが広まり、村の内外では綿織物が徐々に広まっていた。
こうして周囲に綿織物に馴染んでもらい、更に知名度を上げたうえで、村人の間に綿花の栽培を勧めようと長政や重元らは考えており、実際にその効果は上がりつつあったが。
そうは言っても、目の前に広がるナイル川の増水を活かしたベイスン農業の壮大さを見ていると、実際に可能だ、と幾ら重元が言っていても、重元自身が技術的に可能でも、実際にこの村の住民に受け入れられるだろうか、と懐疑的になる有様になるのは止むを得ない状況だったし。
長政夫妻に至っては、尚更だった。
だが。
竹中重治だけは、意気軒高だった。
不可能と周囲が言えば言う程、自分ならばなんとか成し遂げて見せよう、と若さもあって、考えることが出来ていたのだ
重治は眼前に広がる光景を見ながら想った。
「皇軍」が来るまで濃尾三川の洪水を減らすのは不可能だと周囲は言っていたが、「皇軍」の知識を活かすことによって、濃尾三川の洪水を減らすことができた。
同様のことがナイル川でも必ずできる筈、それで名を残そう。
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