第4章ー4
こんな動きが、自分達の陰であったことは、第6駆逐隊の面々には詳細には分からなかった。
だから、阿波水軍や和泉水軍には、取りあえずは大規模な敵対の意思が無い、と第6駆逐隊は判断した。
そして、須磨海岸を中心に、大阪湾沿岸の現在の地形を大雑把に確認した後、第6駆逐隊は、現在、皇軍が主に集結している鹿児島湾に帰投して、偵察結果を報告することになった。
このことから、阿波水軍や和泉水軍は、本格的に皇軍と抗戦するつもりは無い、という予断を抱いて、近衛師団を主力とする皇軍は、須磨海岸への上陸作戦準備に取り掛かることになった。
その一方で。
この第6駆逐隊の行動は、この当時、畿内に割拠している各勢力、足利幕府や細川氏等に、結果的に皇軍の来襲を予告することにもなった。
更に、島津家から近衛家に対して行われた皇軍に関する内報もある。
この当時の近衛家の当主、近衛植家は、時の足利将軍、足利義晴の義兄弟であった。
そのために、近衛植家は、足利義晴に皇軍の情報を流し、その情報は当然のことながら、足利義晴を支えている細川晴元らにも流れることになった。
これらの情報は、半信半疑(というよりも疑いの方が強かったが)とはいえ、足利義晴らの警戒心を高めざるを得なかった。
「少なくとも異形で更に大型の軍船を、皇軍が持って居ることは間違いないようだ」
「更に言えば、阿波水軍や和泉水軍の面々は、通航を結果的にだが黙認せざるを得なかったらしい」
「上陸時を襲えば、皇軍の軍船と言えども、そう易々とは身動きが取れない筈だ。それで勝機を掴めるのではないだろうか」
「そう楽観的で大丈夫かな。むしろ山岳等に誘い込んで、我々は戦うべきではないだろうか」
足利義晴や細川晴元、更に頭角を現したばかりの三好長慶(当時の本来の名は範長だが、史実の後世において知られた名で記す)らは、そんな会話を交わしたが、とはいえ、具体的な皇軍の戦力と言うのが、どうにも掴めないのだ。
何しろ、最も詳しいといえる島津家の忍びの者が近衛家にもたらした書状でさえも、上洛に向かう皇軍の軍勢は2万余りという程度のことしか書かれてはいなかったのだ。
(勿論、皇軍の総勢は10万を超えるとも書いてはあったが、却ってその数は多すぎて、いわゆる誇大な主張が混じっている、と足利義晴らには思われる有様だった)
更に近衛という言葉が、足利義晴らの誤解を招いてしまった。
「上洛してくるのは、近衛師団と書いてある。ということは、近衛家所縁の兵ではないだろうか」
「ということは、近衛植家殿が説得に当たられれば、むしろ、我々の味方になってくれるのではないか」
そんな会話さえも、足利義晴らは交わしてしまった。
1542年のこの頃、幸か不幸か、一時は細川晴元の第一の重臣と言えた木沢長政(元々は応仁の乱の際に名を馳せた畠山義就の後裔の畠山(総州)家の家臣だったが、その後、色々とあり、畠山政長の後裔の畠山(尾州)家とも連携し、その両家の家臣筆頭といえるだけの実力の持ち主となった。その実力を背景にして、細川晴元の被官(家臣)にもなったが、そのことに増長したこと等から、細川晴元と対立する事態が生じてしまっていた)はいわゆる下剋上を起こし、本格的に細川晴元と木沢長政は、干戈を交える事態にまで突入していたのだ。
とはいえ。
余りにも木沢長政が増長していたこと等から、本来の地盤と言える畠山家中からも、木沢長政を見限る者が多数出る有様で、更に三好長慶らの活躍もあり、細川晴元側が有利な戦況にあった。
とはいえ、木沢長政もしぶとく抗戦している戦況にあったが。
皇軍が上洛してくると足利義晴らの思惑は完全に吹き飛ぶ事態が生じた。
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