第4章ー3
1542年1月25日、坊津港近くに設けられた臨時の会議場において、陸海軍の激論が交わされていた。
「阿波水軍や和泉水軍等、我が海軍の戦力をもってすれば、鎧袖一触ではある。だが、今後のことを考えて、できる限りは手なずけたいのだ」
そういった小沢治三郎中将以下の海軍幹部の主張に対し。
「それは分かるが、皇軍の武威を示して、徹底的な打撃を与えないと、今後も面従腹背されるのではないか」
武藤章中将以下の陸軍幹部は、そう言った懸念を示す主張をして、話が中々かみ合わなかった。
(なお、この場にいる陸軍最高位の山下奉文中将は、最高位の指揮官として、取りあえず沈黙を保っていた。
ちなみに、海軍の最高位の近藤信竹中将は、この頃、マニラに戦艦「金剛」等と共におり、南シナ海において、いわゆる睨みを利かせる任務に当たっていた)
とはいえ、議論ばかりしていても、話は前に進まない。
一応、駆逐艦4隻からなる1個駆逐隊を、大阪湾方面偵察に赴かせ、それに対する阿波水軍等の対応から、この時代の水軍に対する対応を決める(これは、江戸時代に大規模な干拓等が行われなかった吹上浜と異なり、この世界の現実の大阪湾の地形を事前にある程度は確認しておかないと、上陸作戦の断行は危険が大きすぎる、という内部からの現実論を、陸海軍上層部が共に迎えられなかったからだった)という妥協案が、海軍から提出され、陸軍からも同意が得られたことから、1月26日の朝、1個駆逐隊(最終的に第6駆逐隊が選抜された)が大阪湾偵察に赴いた。
そして。
「こんなのんびりした速度で航行したくはないが、燃料が心配だからな」
「全く同感です。駆逐艦の艦長としては、もう少し速度を出したい」
駆逐艦「暁」の艦橋上で、第6駆逐隊司令の成田茂一大佐と青木久治少佐は、そんな会話を交わした。
何しろ、大阪湾に向かう第6駆逐隊は、現在12ノットという駆逐艦としては低速の航行をしている。
とはいえ、実はこれでも、この当時の水軍(海賊)衆にしてみれば、超高速といえたし。
「おい、あの4艘の船は何者だ?」
「信じられない。帆も櫓も櫂もなく、あんなに大きくて、速度が出ているとは」
そんな会話を、阿波水軍にしても、和泉水軍にしても、いわゆる通行料(海関料)を取るための見張り台にいた者達は交わし、その報告を受けたいわゆる水軍衆の頭領達も、自らの目で第6駆逐隊の姿を確認すると、同様の想いを抱く羽目になった。
本来からすれば、いわゆる通行料を取り立てるために、阿波水軍にしても、和泉水軍にしても、第6駆逐隊の前に立ち塞がろうと試みるべきだった。
だが、見張りの者が水平線の彼方で、その姿を認めて、その正体を確認する間もなく、第6駆逐隊の各艦は間近に迫ってきた。
更に、水軍衆の面々が、慌てて出港準備を整える頃には、いわゆる最寄りの湊の目の前を、第6駆逐隊は通り過ぎていたのだ。
そして、通り過ぎた第6駆逐隊に追いつこうにも、この当時の船が出せる速度からすれば、追いつくのはどうにも無理な話なのが半ば自明の理なのが、練達の船乗りでもある水軍(海賊)衆の面々からすれば、明らか極まりない話だった。
「止めだ、止めだ。無理をしてもどうにもならねえ」
そう半ば愚痴混じりに、阿波水軍の面々も、和泉水軍の面々も、捨て台詞を吐いて、第6駆逐隊の通航を黙認する羽目になった。
だが、彼らの判断は、後々で想い返した場合、却って幸運だったと言える。
もし、第6駆逐隊の航行を阻止しようと、戦闘行動を行っていたら。
何しろ時期が時期である。
水軍衆の多くが、冷たい冬の海に投げ出されて、更にその多くが鎧を身に付けていることもあり、水死しただろう。
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