第4章ー2
とはいえ、陸海軍共に共通認識としては、摂津の須磨海岸よりも、和泉の堺近辺に上陸したい、というのが本音のところではあった。
何故かと言えば、この当時、堺の湊が史実通りに、畿内においては最大の湊である、という情報が、島津氏等から入っていたからである。
最大の湊、堺を抑えることで、商工業の基盤を確保したい、と皇軍が望むのは当然の話だったが。
それこそ、既述した通り、この頃の海中の状況が分からない、というのが問題となってくる。
上陸作戦自体は、それこそ大発動艇等、陸軍が営々と努力した末に開発した上陸用舟艇によって、そう困難ではないかもしれないが、それを上陸地点周辺まで運ぶ輸送船や護衛艦艇は、それなりの喫水があり、座礁等の危険は軽視できるものではないのだ。
更に言えば、大阪湾に流れ込む大和川は、江戸時代に大幅な付け替え工事が行われており、その影響も海底の地形等について多大なものがある、と推測されている。
そうした危険性を考える程、紀淡海峡を突破した皇軍の輸送船団は、できる限り、淡路島寄りを航行した上で、須磨海岸に上陸するのが無難である、という海軍の主張を、陸軍も傾聴せざるを得なかった。
須磨海岸に上陸した上で、摂津をまずは制圧し、主力は京の都を目指し、一部は和泉、河内方面を望んで堺等を抑えざるを得ない、と最終的には陸軍上層部は判断した。
だが、これ以外にも問題は、多々あった。
例えば、我が皇軍の戦力からすれば鎧袖一触の敵に過ぎない、との声は、陸軍のみならず海軍内でも高かったが、上洛作戦を遂行するとなると、西国各地の水軍(海賊)衆の動向を無視するのも、皇軍上層部からすれば躊躇われるものがあった。
何故ならば。
皇軍にしてみれば、日本を再統一し、天皇親政の世の中にすれば終わり、という訳にはいかないのだ。
この時代を考える程、ポルトガル及びスペインと、日本は戦わざるを得ない。
そうしないと史実通り、日本人奴隷がポルトガルやスペインに数十万人規模で輸出されるという事態が招来されかねない。
勿論、日本再統一の暁には、様々な法令で日本人奴隷の輸出を皇軍は禁止するつもりだが、それこそ密貿易の常として、需要と供給は鏡の裏表と言ってよい。
それを防ぐ最善の方法となると、ポルトガル、スペイン自らが奴隷貿易を禁ずる必要があるのだ。
しかし、異教徒を奴隷にしても問題になるどころか、むしろ、それによって巨利を得られているポルトガルやスペインが、自発的に奴隷貿易を禁ずる訳が無い。
そうなると、戦争をして条約により奴隷貿易禁止を、ポルトガルやスペインに押し付けるしかない。
勿論、史実通りにいわゆる鎖国をすればよいのかもしれないが、皇軍としては、資源確保のためもあり、積極的な海外進出を企んでいる以上は、鎖国は無理な話なのだ。
だから、ポルトガルやスペインとの戦争は、この世界の日本にしてみれば、不可避の運命だった。
話が少なからず、ずれたが。
こうした観点、対ポルトガル、スペイン戦争は不可避である、という観点からすれば、日本各地の水軍(海賊)衆は、そう簡単に滅ぼして済む存在では無かった。
ある程度の基盤があった方が、海軍育成が容易なのは当然である以上、水軍(海賊)衆は、将来の日本海軍養成のことを考えれば、皇軍としてみれば、むしろ庇護したい存在であるとさえいえた。
とはいえ、皇軍に対して、いわゆる刃を向けてくるのならば、その水軍(海賊)衆と皇軍は戦闘をせざるを得ない。
こうした点を勘案しつつ、この頃の皇軍は、陸海軍が共同して、速やかに近衛師団を上洛させ、天皇陛下を救出しようと頭を痛めることになった。
(猶、天皇陛下は望んでいなかった)
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