第4章ー1 近衛師団、京へ
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近衛師団の将兵が、薩摩の国にいわゆる勢揃いしたのは、(グレゴリウス暦の)1542年1月20日になってからだった。
これは、幾つかの原因が絡み合った結果だった。
まず第一に、この時代の天皇陛下がどこにおられるのか、中々、確証が掴めなかったことだった。
まずはルソンで、日本の存在が分かり、更に琉球で、日本には帝、天皇陛下がおられることは、皇軍に確認ができたが、日本もそれなりに国土が広いのだ。
だから、どこに天皇陛下がおられるのか、確証が皇軍に掴めないと、天皇陛下の救援、救出もままならないことになるのだ。
第二に、燃料等の皇軍の補給不足というより、皇軍への補給の断絶から来る問題だった。
何しろ、皇軍はいきなり400年前の過去に飛ばされて来た存在と言っても間違いではない。
だから、今の手持ちの物資を使い切った場合の補給は無い、と皇軍(少なくとも上層部)は、覚悟を固めて行動を検討せざるを得ない。
だから、近衛師団を天皇陛下の救援、救出に向かわせるのにも、慎重に考えざるを得なかった。
だが、ボルネオ島の(ブルネイ近辺の)セリア油田から、原油が出ることが確認された。
(なお、この時点では、セリア油田の原油の質量の詳細は未だに不明だった)
更に、島津貴久の言葉により、帝、天皇陛下が史実通りに京の都におわしますことが確実と判断された。
こうしたことから、ルソンにいた近衛師団の将兵は、薩摩に駆けつけたのだ。
言うまでもなく、京の都に向かい、天皇陛下の救援、救出を行うために。
(なお、皇軍側が一方的に思い込んでいるだけで、今上帝、天皇陛下(史実の後奈良天皇陛下)は、そんな皇軍による救援、救出等は、夢にも望んでいないことは言うまでもない。
更に言えば、皇軍が主張する天皇親政等、今上帝、天皇陛下にしてみれば、後醍醐天皇の先例から考えてみても、本音を言えばトンデモナイ暴論にしか思えないのが現実だった)
そして、京の都に向かうとして、侃々諤々の議論が、近衛師団を中心に行われることになったが。
どのような経路で、近衛師団が薩摩から京の都に向かう際には、瀬戸内海を突破するという案につき、
「やはり、豊予海峡を抜けて正々堂々と瀬戸内海を突破する、というのは、海軍としては反対か」
「反対せざるを得ませんな」
薩摩にいる海軍の最高責任者と言える小沢治三郎中将の発言は、にべもないものだった。
「海軍としては、いわゆる土佐沖を経由し、紀淡海峡を突破、須磨海岸及びその近辺に近衛師団を上陸させるのを最上と判断します。これは、当時の海底の地形が分からないことから考えても妥当です」
小沢中将は、持論を断固として曲げるつもりは無かった。
何しろ、戦国時代の日本にいるという前提で、上陸作戦を皇軍は計画せざるを得ない。
そうしたことからすれば、瀬戸内海を海軍が突破するというのは、リスクが大きすぎた。
下手をすると(いや、下手をしなくても)、艦艇や輸送船が、この時代にあった暗礁等に気付かずに、座礁してしまうリスクが否定できない程、大きいのだ。
何しろ、江戸時代に瀬戸内海沿岸では、干拓事業が広範囲に行われた。
そうしたこと等から、現在、海軍の保有する海図は、特に瀬戸内海沿岸部に関しては、海軍士官にしてみれば、全く信用できない代物と化している。
そう言ったことを考えれば、薩摩から土佐沖を経由して、紀淡海峡を突破し、須磨海岸に近衛師団を上陸させるべきだ、という小沢中将を始めとする海軍上層部の主張は、極めて合理的な主張だ、と陸軍上層部としても最終的には言わざるを得なかった。
とはいえ、皇軍の武威を少しでも示したい陸軍上層部にすれば、忸怩たる思いに駆られる話だった。
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