第3章ー14
史実の川口支隊の無念もあり、少し悪ノリしましたが。
(史実のシンガポール、コレヒドール戦からしても、何とかできる話だと思いたいです)
山下奉文中将が、第16師団の残部等を、薩摩に向けたのは、ある意味では偶然だった。
次章で述べるが、この頃、近衛師団も薩摩に到着はしていたものの、2月上旬に計画された大阪湾上陸作戦の準備に追われている有様で、薩摩は皇軍の兵力がほぼいなくなるのが間近という状況だった。
この状況に、山下中将は何となく嫌な感じを抱いた。
「島津家以下、表向きは恭順している諸勢力が、我々の寝首を掻くようなことがあるのでは」
山下中将は、そんな懸念さえも覚えるようになった。
山下中将やその周囲には、薩摩に1週間程いる内に、この中世日本の空気、気配が分かってきた。
同じ日本という先入観を抜いて、この中世日本を見て見ると、そんなに天皇陛下、皇室を自分達がいた昭和の頃のようには尊崇していないのだ。
むしろ、天皇陛下よりも足利将軍を上位に置いているような気配さえも感じる。
「そんなことは断じて許されない。日本は皇国である。天皇陛下親政こそ正義であり、足利幕府打倒が真の正義なのだ。日本をそのように導かねばならない」
と山下中将(及びその周囲)は、信じているが、そうは言っても、現実問題として、10万以上の兵力が皇軍にあるとはいえ、日本全土を制圧するには、どうにも足りない。
そうなると、まずは足場を固め、味方を増やす方策を考えるしかない。
そして、山下中将は、まずは軍人である以上、半ば必然的な思考として、手元の兵力をできる限り、日本本土に向け、戦力を充実させて威圧を加えることにより、当面の味方を増やすことを考えたのだ。
(あくまでも当面の味方である。
天皇陛下を皇軍が擁した後は、それこそ私戦停止及び治罰の綸旨を賜ることで、いわゆる錦の御旗を掲げて、武装抵抗勢力を潰すと共に、それこそ明治新政府がやったように義務教育をまずは4年程、日本の臣民に施すことで、日本の皇民教育を進めることを、この頃の山下中将(及びその周囲)は考えていた)
そうしたことから、第16師団の残部等、ルソンに拘置されていた予備兵力は、薩摩に向かった。
そして、このことは島津家の一部等が計画した皇軍襲撃計画を未然に挫折させた。
更に、上洛作戦の一環として、島津忠良、貴久父子が近衛師団に随行することが公表されたことで、皇軍襲撃計画は完全に闇に葬られることになった。
それはともかく。
都於郡城は、名門伊東氏の本拠に相応しい威容を誇る城だった。
惣構え(城の外郭防衛線)は、東西約2キロ、南北約1キロに及び、掘割も4キロに及ぼうか、という広大な城だった。
伊東義祐が、この城は難攻不落であると自負し、この城に籠城すれば皇軍を撃退できる、と考えるのも無理はない、と当時の常識からすればいえた。
だが。
「面倒だから本丸に砲撃を集中しろ。まずは1門当たり10発、全部で120発程叩き込め」
川口支隊長は、野戦重砲兵第21大隊にそう命じ、大隊は、都於郡城の本丸に、15センチ榴弾砲弾120発を撃ち込んだ。
その威力は、伊東氏の兵を驚倒させるだけに止まらなかった。
伊東義祐自身に重傷を負わせ、他の多くの家臣も死傷させたのだ。
伊東義祐が負傷したのは偶然の産物だったが、このような砲撃が続けて浴びせられた場合、伊東氏側は一方的に死傷するという事態が起きてしまう。
伊東義祐は、慌てて降伏の使者を皇軍に送った。
更に、この砲声はある意味、日向どころか九州一円に轟いた。
「あの西国一と謳われる都於郡城が、大砲の砲撃を浴びて崩された」
「皇軍の大砲の砲撃に耐えられる城が、この世にあるとは思えない」
日向の国人衆は、土持氏を始め、慌てて皇軍に誼を通じ、皇軍に味方することを伝えた。
ここに南九州は皇軍の制圧下に置かれた。
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