第19章ー19
実際、第二陣の斥候部隊の報告によって、テキサス方面からの松平家等の民兵隊の行動を知ったアルバ公は、表面上は平静を保ったが、内心では泡を食う羽目になった。
「いかん。1万人程の部隊がテキサス方面から侵攻してきているだと。メキシコにいる我が軍の半数より多いではないか」
アルバ公は頭を抱え込んだ。
更にアルバ公の下には、相次いで続報が入った。
テキサス方面から侵攻してきた日本軍は積極的に掠奪行動を行っており、教会等が相次いで焼き討ちにも遭っているというのだ。
(これは、本多正信からの、スペイン軍の挑発にはカトリック教会を焼くのが最も効果的である、との献策を松平元康が受け入れたことによるものだった。
実際、メキシコのカトリックに改宗したインディオ、原住民の間では、スペイン軍が大事にしている筈のカトリック教会が、日本軍に焼き討ちされてもスペイン軍の反撃が速やかに行われないことに対して、何でカトリック教会の焼き討ちを座視するのか、という不審の声が徐々に声高に挙がるようになった)
カトリックの守護者を自任しているスペイン王国、その軍隊にしてみれば、このカトリック教会焼き討ちという事態が続発すると言うのは、完全に面子が泥まみれになるような事態と言えた。
アルバ公としては、メキシコにいる健在なスペイン軍約1万8000人の内、約1万2000人を自ら率いて松平家等の民兵隊を迎撃するために急行せざるを得なくなった。
その急行する間にも、日本軍、松平家等の民兵隊によるカトリック教会の焼き討ちは相次ぎ、スペイン軍を苛立たせることになった。
ところで、そんな事態にあるにも関わらず、アルバ公がメキシコにいるスペイン軍の全軍を率いて、テキサス方面に向かえなかった理由だが、これには複数の理由が組み合わさっていた。
まず第一に、少し前述したが、メキシコ方面のスペイン軍は反抗的な原住民、アステカ帝国の残党等の討伐を行わねばならず、それによって生じる損害は原住民より圧倒的に少なかったとはいえ、全く無視できるものではなく、戦病死者を含む戦死者は、毎年1000名を軽く超える有様だった。
また、欧州とは全く違う風土の為に、疫病や風土病に倒れる将兵も後を絶たない有様だった。
常時、最低1割、ピーク時ともなると約2割の兵士が体調不良を訴える有様だった。
勿論、アルバ公もそう言った事情を把握しており、スペイン本国に対して補充兵を常時送ることを要請していて、中南米大陸の現地で将兵の徴募を図ることまで試みたが。
そもそも論になりかねないが、日本の植民地の場合、日本本土から来る移民は、それこそ農民が主力であり、植民地に来た後は完全に根付いてしまうのが当たり前なのに対して。
スペイン(及びポルトガル)の植民地の場合、本土から来る移民は一獲千金を狙ってくる者が多く、上手く行ったら、故郷に錦を飾ろうと本土に帰還する者が稀では無かった。
更に、日本の場合は「皇軍来訪」による様々な効果によって人口爆発という事態が起きていたし、宗教の面から北米大陸に新天地を求める者(本願寺門徒や法華宗不受不施派宗徒)までいたので、200万人を超える規模で北米大陸に移民が殺到していたが。
スペインの場合は、上記の事情から山師的な移民が多かったこともあり、それこそブラジルにいるポルトガルの移民まで搔き集めて、更にカリブ海の島々まで入れても南北米大陸全体で、移民の民間人は20万人程と推定されるのが現実だった。
こういった事情では、アルバ公が幾ら頑張っても、中南米大陸の現地でまともな将兵を集めるのは困難としか言いようが無い。
こうした事情がスペイン軍の充実を困難にしていた。
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