第3章ー12
肥後の一揆軍に参加していた主な勢力が被った打撃は、極めて大きかった。
この時代の軍勢の常として、基本的に武将、組頭が前線で指揮を執らねば、足軽等は前に進まない。
八代近辺の戦いにより、多くの武将、組頭が失われたことは、軍勢の能力の過半以上を失ったといえる。
また、動員をかけるのにも苦労する事態が招来される。
例えば、相良氏がどうなったかというと。
相良長唯は、八代近辺の戦いでは総大将として、やや後方にいたことから、負傷はしなかった。
しかし、最前線での武将、組頭の死傷多発により発生した裏崩れを食い止められなかったことから、武将としての声望が、いわゆる地に堕ちる事態が起きた。
また、養子として迎えていた世子の為清は、狙撃による重傷を負い、いわゆる輿に乗っての移動を余儀なくされる身となった。
(時代的にはややずれるが)例えば、立花道雪のように輿に乗っても、戦場往来の猛将として名を轟かせた者もいない訳ではない。
しかし、普通に考えれば、最早、武将として戦場に出るのは不可能な身に為清はなったと言ってよい。
相良氏は、いわゆる後方を預かっていた一門衆の重臣(為清の実父でもある)上村頼興が動き、島津氏を介して、皇軍に詫びを入れることで何とかすることにした。
上村頼興にしても、次男の頼孝を始めとする息子3人を八代近辺の戦いで失っており、本音では和睦等は結びたくないが、お家存亡の危機である。
(後世に伝わる伝説では、八代近辺の戦いにおいて、上村頼孝は重傷を負い、更に鎧の破片が肉体に食い込んだことから、苦悶する羽目になり、更に破傷風を併発した。
激痛と高熱にのたうち回った末、何とか父の頼興の下に生きて、頼孝はたどり着き、涙ながらに父に復仇を訴えて息絶えたが。
それを見届けた頼興は、息絶えた息子に対し、
「赦せ。その願いを父は断じて叶える訳には行かん。あの世で大いに儂を恨め。儂は、生き残った人吉の民と相良の家を何としても守らねばならんのだ」
と涙ながらに告げた後、皇軍との和睦に奔走したという)
取りあえずの措置、和睦の案として、長唯が切腹、為清が家督相続すると共に、相良家が責任をもって一揆を完全に解体する、その証として為清の正室である名和武顕の娘は、速やかに為清と離縁する、という案を上村頼興は示し、山下中将は受け入れた。
そして、長唯は腹を切り、相良氏は、為清が家督相続をした。
また、為清の正室は、八代近辺の戦いで父が狙撃により討死し、更に離縁されたことから、世を儚んで尼になった。
そして、彼女は、実父、義父、義弟らの供養に生涯を捧げた、という。
そして、他の主な肥後の一揆軍に参加した面々だが。
例えば、八代近辺の戦いにおいて、名和武顕、菊池義武は狙撃により討死しており、名和氏、菊池氏に至っては家督を巡る争いさえも起きることになった。
結局、名和武顕の跡は、次男の行興が継ぐことで落着したが、菊池氏はここに(一時的にではあったが)断絶を余儀なくされた。
菊池義武に息子がいなかったわけではないが、そもそも、義武自身が大友氏からの養子の身であり、いわゆる家中において人気が無かったことや、あの菊池氏が皇軍に歯向かい、こともあろうに皇室の紋を戴く菊兵団と戦うとは、という感情論が皇軍上層部において強かったこと、更に菊池氏家中もその空気を読んだことから、菊池義武の息子は大友氏に復するという形で、自らお家断絶という路を選んだのである。
(もっとも、お家断絶と言っても、菊池氏の家臣は国人衆という形では温存された)
もっとも、上村頼興らもただでは済まさない。
島津家の面従腹背を大いに鳴らし、皇軍は島津氏を不信の目で見るようになった。
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