第17章ー36
そんな騒動が発生してから、数か月が経ち、季節が夏に完全になった頃、一人の若者がオーストラリアから北米大陸の植民地に降り立っていた。
「季節が逆と言うのは、地味につらいな。自分の感覚では冬になっている筈だったのだが」
そんなことをその若者は呟いた。
その若者の名は、細川藤孝、半ば言うまでもないことかもしれないが、(この世界でも)足利義輝の側近として仕えている身である。
また、(本来なら将軍になっている)足利義輝の側仕えとして、庖丁道等を究めようとも、藤孝はしていたが、時代は大いに変わってしまっていた。
藤孝は、足利将軍家の庖丁道として知られていた大草流を、当初は学んだ。
だが、足利義輝が現在、いる場所はオーストラリアであり、例えば、大草流がある意味、究めていた鯉の庖丁道を披露しようにも、その鯉がいない場所だった。
そのため、大草流は衰亡の兆しを示さざるを得なかった。
その一方で、大草流の分家といえる進士流の庖丁道は、その点で柔軟に対応した。
このオーストラリアと言う土地には鯉や鶴といった食材が無いことに鑑み、それ以外の魚や鳥の食材を積極的に探究した上で、進士流は庖丁道で活用しようとしたのだ。
このことで、足利義輝に進士流は気に入られることになった。
更にこのことが、所詮は奉公衆出身に過ぎない進士家の娘の小侍従が、義輝の寵愛を受けて、娘を産んだこともあるが、一時ではあるが、事実上の正室扱いの側室にまでなった一因ともなった。
この状況を見た藤孝は、庖丁道については、大草流よりも進士流を学ぶことにした。
実際問題として、鯉が獲れない土地で、鯉の庖丁道を究めようとするのは、空しい話でもあった。
それに、主君である義輝が、大草流よりも進士流を重んじるようになったのだ。
かくして、藤孝は進士流を徐々に究めているとき、急に主君の命で北米大陸に赴くことになった。
これは、日本政府からの命令によって、北米大陸開拓のためのオーストラリアからの年季奉公人を引率する、という名目だが、本音は一人でも多くの人員を、オーストラリアに連れ帰るための監視役という側面もあった。
実際、藤孝自身も主の想いに共感していた。
少しでも北米大陸の開拓に人員が必要だから、という政府の主張は分かるが、オーストラリアにまで負担を求めるな、と藤孝自身も想っていた。
とは言え、その一方で。
庖丁人の端くれとして、藤孝の内心の片隅が、北米大陸ではどのような料理が流行っているのか、実地に見られる、というのも楽しみではあった。
ひょっとしたら、自分の見知らぬ料理があるのでは、という想いが藤孝はしていたのである。
そんな想いをしながら、北米大陸にたどり着いた藤孝は、礼儀もあって、北米大陸の日本植民地の総督でもある久我晴通を、まずは訪ねることになった。
久我晴通は、半ば言うまでもないが、藤孝の主である足利義輝の実の叔父に当たる。
更に源氏長者という地位にある人物でもある。
藤孝にしてみれば、主の縁者であって、北米大陸の日本植民地の総督という地位に、久我晴通がある以上は、まずは逢って何らかの職務を得ようとするのは、半ば当然の話と言えた。
そして、北米大陸の日本植民地に藤孝は到着して早々に、久我晴通に面会の約束を試みることになったのだが、そうは言っても久我晴通も多忙であり、すぐに面会等、思いもよらない。
結果的には、上陸を果たしてから、1週間ほど後の日に藤孝は、久我晴通と逢うことになった。
そのために、藤孝は色々と周囲を見て回り、時間を潰す羽目になったが。
これはこれで、藤孝にしてみれば、幸いと言えた。
この間に藤孝は、ある意味、食道楽を楽しむことが出来たからである。
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