第3章ー5
そんな想いを島津氏がすること等、全く考えることなく、1542年1月10日、薩摩の吹上浜に第18師団の上陸作戦は展開された。
幾ら会議の席では反対していたとはいえ、念のために小沢治三郎中将が座乗する「鳥海」を旗艦とする小艦隊が第18師団の船団を護衛し、更にいざという場合の火力支援を担っての上陸作戦ではあった。
だが。
「何とまあ」
「こんな楽な上陸作戦なら、またやりたいくらいだ」
という声が一部では挙がり、また、
「おお、日本の砂だ。故郷への第一歩だ」
「ここから故郷までは、どれくらいあるかな。時代が違うとはいえ、故郷へ帰りたい」
という声が一部で挙がる上陸作戦となった。
何故かというと。
1月10日の吹上浜において、島津氏の軍勢は影も形も無かった、といってよい有様だったからだ。
勿論、(島津氏側から見れば)異形の軍勢が、1万人以上の規模で、いきなり上陸してきたのだ。
本来からすれば島津氏は、軍勢を駆り集めて、すぐに迎え撃とうとすべきだったかもしれない。
しかし。
そもそも、この時代の軍事常識から言って、いきなり吹上浜への上陸作戦等、島津氏にしてみれば、全くの想定外といってよい事態だった。
(というか、16世紀までの世界の軍事史を紐解いても、吹上浜のような場所に、1万人を超える軍勢がいきなり上陸作戦を展開したこと等、全く無いと言っても過言では無い事態だった。
何しろ吹上浜の周囲には、沿岸航海に類する程度の航海で到達できる外国、異国は存在しないのだ。
確かに琉球王国の存在があるとはいえ、琉球王国の国力から言っても、島津氏が吹上浜に万を超える軍勢が上陸してくることを想定して防衛体制を築いていないのは、ある意味、当然と言えた)
こうしたことから、島津氏の軍勢は、吹上浜に中々現れない、という事態が生じたのだ。
勿論、吹上浜近くの島津氏方の城、砦にいる在番や見張兵からの急報が、当時の島津宗家の当主、島津貴久がいる清水城(現在の鹿児島市内)の下に向かったが、島津貴久も手元の軍勢を常時、武装した兵として拘置していた訳ではない。
それこそその急報を受けて、慌てて貴久は味方の国衆に動員を呼びかけ、軍勢を整えざるを得なかった。
「ぬかりました」
1月11日の朝、島津貴久は、正直に実父の島津忠良に、自らも情けないと思いつつ、ボヤキを訴えざるを得ない有様に陥っていた。
(厳密に言えば、島津貴久らの認識に従えば、この日は天文10年12月15日になるのだが、混乱を避けるために、以下、グレゴリウス暦で記す)
吹上浜に異形の軍勢が上陸してきた、という急報を受け、国衆に自分の下に馳せ参じるように命じてはいるが、国衆の応答は極めて鈍い。
坊津の商人等から、琉球に異形の軍勢が現れ、皇軍と名乗って薩摩方面に向かおうとしているという噂、情報が島津貴久の下に流れてはきていた。
だが、その情報は余りにも荒唐無稽としか、自分には思えず、特に備えてはいなかったのだ。
何しろ自分や周囲の既知の情報の中に、皇軍は無かったのだから。
ところが。
相次ぐ続報を信じるならば、上陸してきた皇軍と称する軍勢の総数は2万を超えるという。
鎧等は身に付けていないとはいえ、「てつはう」らしき武器をほぼ全員が持っており、その威力は数百間離れていても、1つ轟音を響かせれば、金属の玉が馬に当たって死なせる程だとか。
その軍勢の多さとその武器の強力なことから、自分の配下の国衆の多くが日和見をしているといってよい有様になっている。
「やむを得んな。取りあえずは、交渉を申し入れよう」
「それしかないでしょうな」
父の忠良の助言を受けて貴久はそう決断し、使者を皇軍の下に向かわせることにした。
それこそ弘安の役の際の江南軍が、博多湾上陸作戦を展開しているだろう、という多大なツッコミがありそうです。
しかし、昨今の研究によると、江南軍は移民船団と言っても間違いない有様で、いわゆる東路軍が博多湾上陸作戦を担っていたとか。
今回の描写は、それを受けて描きました。
いや違う、弘安の役の江南軍は精鋭を集めており、日本を制圧するための軍勢だった、と証拠を示して言われるのなら、私は知識不足について、ひたすら頭を下げるしかないです。
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