第17章ー8
そう、北米大陸西海岸の日本の植民地は、1556年現在、人を大量に必要としていた。
それこそ、対スペインの中南米大陸方面での戦争に備えるために、軍需品等を生産するための工場には、技能に乏しい安価な単純労働者が求められており、その一方で、ある程度の技術を持った熟練した労働者も求められていた。
更には、農民も同様で、広大な農地の開拓を行うために安価な農業小作人が求められる一方、この土地に適した農業を行うために、水田農業以外の農業に通暁した人材が求められてもいた。
こうした事態に対応するためもあり、安価な労働者確保のため、年季奉公制度がよく悪用されていた。
もっともよく見られたのが、日本本土から北米大陸への渡航費用を、前借金という形で提供して、その返済は年季奉公の中で行うという形である。
更に、様々な口実で前借金に利息等を付け、年季奉公人が、半永久的に年季奉公を続けざるを得ないようにしようとする悪辣な雇用主も、当時の北米大陸では珍しくなかった。
とはいえ、半永久的に年季奉公人を続けざるを得ないような年季奉公制度が存在しては、奴隷制度とどこが違うのか、という話になりかねない。
それにそのような事態が横行しては、却って北米大陸への移民を阻害する事態が起きかねない。
そうしたことから、利息や必要経費等と言った名目を付けて、前借金を膨らませる制度を、久我晴通率いる北米大陸の日本植民地では禁じることになった。
前借金による年季奉公は認めるが、前借金を膨らませるのは禁じたのだ。
また、最長期間を10年と定め、それを超えたら、無条件で年季奉公は終了すると定めた。
(これは、この当時、小学校が4年制であったことから、食い扶持を減らす等の理由で、小学校卒業後に年季奉公に出される例が、日本国内で多発していたことからの方策だった。
成人したら家庭が持てるように、との配慮から、10年という数字が出てきたのだ)
そうしたら、そうしたで、年季奉公を終えたら、すぐに新たな年季奉公契約を結ばせようとする輩が現れる等の事態もあったが。
一生の間に、年季奉公期間は最長でも通算で10年まで等の保護立法を制定する等して、北米大陸の植民地は年季奉公が永久化しないように努めた。
それは何故か、というと。
結局のところ、この頃の北米大陸は人手不足であり、一人でも多くの人を確保しようと、多くの地主や経営者等の資本家が躍起になっていたという事情があった。
年季奉公により安い労働者を囲い込もうとする動きに対して、不公平だ、自由な労働者に高給を提供することで労働者を確保すべきだ、と一部の資本家は叫び、また、北米大陸の植民地にいる労働者の多くもそれを支持する、という現実があったのだ。
こうしたことから、久我晴通を始めとする植民地政府の上層部は、植民地内の緊張緩和のためにも、年季奉公については、様々な制限を課す方向に動かざるを得なかったのだ。
更にこうした動きを現地で見て、肌で感じていたことから、北米大陸に駐屯中に志願兵としての勤務期間を終えた兵は、現地で除隊して、北米大陸の植民地で職を得ることで、今後もここで生活していこうという動きが広まることになったのだ。
更に、これを後押しする動きが2つもあった。
まず一つが、兵としての経験を積んだ住民が、北米大陸の植民地に増えることで、対スペイン戦争と言った、いざという事態が起こった際に、現地から容易に志願兵を募ったり、敵からの襲撃に際して、北米大陸の植民地が自衛できたりするようになる、として日本本土の軍関係者(その多くが言うまでもなく皇軍関係者だった)から、これを積極的に後押ししようとする動きがあった。
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