第16章ー16
それこそ、ゴアを半ば例にとって説明することになるが。
ポルトガル領インドに対する日本の攻撃において、無条件降伏を受諾したポルトガル軍や政府の現地の軍人や官僚等に対して、日本の戦後処理は極めて簡明と言って良かった。
ポルトガル本国から来ていた者については、基本的に日本が引き取る。
それ以外の現地で採用された者等は、日本と共闘した現地勢力の面々が引き取ることになる。
そして、ポルトガルからの占領地については、日本と共闘した現地勢力の手に委ね、日本は現地勢力と友好関係を結び、治外法権と無関税での交易による利益を基本的に謳歌する、というものだった。
これは、インド本土に日本が介入しては、各国の対立に巻き込まれかねないことと、後述するが、日本政府としては中南米大陸に、主に軍を向けようとしていることから、インド本土に派兵する余裕に乏しいことから起こった事態だった。
ゴアについても、同様の処理が為された。
ゴアの統治は、かつてゴアを領土としていたビジャープル王国が担うことになった。
そして、ポルトガル人以外の捕虜、また、ゴアの領民は基本的に殺されることは無かったが、ビジャープル王国に日本はその処理を委ねた。
日本から処理を委ねられたビジャープル王国は、捕虜のほとんどと一部の領民を奴隷として売り飛ばして、その利益を得ることになった。
そして、ポルトガル人の捕虜達だが。
「ここは、何処ですか」
「我々はオーストラリアと呼んでいる大陸だ」
「こんな土地があったのですか」
「ああ、他にもこの近くにはニュージーランド等の土地もある」
「そんな土地が、この地にあったとは」
捕虜たちは、たどり着いた土地についての日本人の説明を受け、呆然とすることになった。
ゴアで捕虜となったポルトガル人達は、インドから日本人によって連れ出された。
連れ出された多くのポルトガル人が不安を覚えたが、そもそも自分達は武装解除されているのに対し、周囲の日本人は完全武装しており、暴動を起こして抵抗する等は思いもよらぬことで、不安なまま、日本人に連れられて行くしかなかった。
それに航行中の待遇自体は、捕虜となったポルトガル人にとって、決して悪いものではなかった。
飢えるどころか、十二分な食事が捕虜には航行中は提供された。
勿論、微妙に口に合わないモノが出されることはあったが、自分達が虜囚の身であることを考えれば、文句をとても言えたものではなかった。
そして、日本人の監視下に常に置かれており、更に、かつての上司、部下等の関係をできる限りは分断するように、各々が隔離されているとはいえ、数人単位で人が集って、運ばれていったのだ。
一人きりなら孤独だが、数人でお互いの現状等を話し合いつつ、運ばれていく、というのは、捕虜の精神安定の面から言えば、有難いことこの上ない話だった。
そして、彼らはオーストラリアに主に運ばれていった。
さて、何故にポルトガル人の捕虜が、オーストラリアに主に運ばれたのか、というと。
まず、捕虜の脱出を困難にするためだった。
いきなり、半ば未知の土地に運ばれては、幾ら航海術を身に着けていても、脱出は困難な話になる。
そして、捕虜に仕事を与え、それに従事させることで、脱出について考える時間等を捕虜から奪う、ということも考えられていた。
何しろ、オーストラリアやニュージーランド等の地を、皇軍の示唆や指導によって、現実に日本人が発見してから、まだ20年も経っておらず、この地の開拓等の路は、まだまだ遥かな代物といえた。
そのために、その開拓に人手、人材はまだ大量に必要なのが現実だった。
ある意味、だからこそ、ポルトガル人の虜囚は現地において歓迎された。
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