第16章ー4
そういったポルトガルを始めとする欧州の船乗りの現状がある一方で。
1556年の日本の船乗り(海軍の軍人、商船の船員等)は、というと。
「現在の本艦の天測による位置からの推測ですが、経緯度から考える限り、明日にはゴア沖合に到達できると考えます」
「うむ。見事な天測技術だ。自分と同様の天測結果が出るとはな」
「ありがとうございます」
日本海軍に志願して任官した村上武吉少尉は、上官の言葉に感謝しつつ想った。
義父(妻の父)の村上通康に、海軍に入る前から鍛えられていたお陰だな。
皇軍の来訪後、皇軍の海軍関係者は、日本がインド洋や太平洋に積極的に進出していけるように、海軍兵学校や商船学校を積極的に作り、また、当時の日本にいた海賊(水軍)衆を中心に人を募った。
そして、集って来た人材に対し、積極的に海軍士官、また商船の航海士等としての教育を施した。
その結果、1550年代に入る頃には、順調に海軍士官や航海士が育つように、日本はなっていた。
村上少尉は、こういった状況の中で、海軍士官を目指した中の一人だった。
皇軍が来訪した当時、村上少尉の出身である能島村上氏は、盛大な内輪もめ、一族間の内戦をしている真っ最中と言ってよい状態だった。
だが、皇軍の上洛により、足利幕府が没落し、皇軍の示唆を受けた朝廷からの内戦停止令が下されたことから、状況に鑑みて、能島村上氏は内戦を止めざるを得ず、内戦は痛み分けという結果になった。
そして、村上少尉は、(周囲の親族等からの勧めもあり)こういった状況から、いち早く皇軍と誼を通じた村上通康の娘と婚約し、海軍士官の路を目指すことにしたのだ。
そして、海軍に入る前から、名門の能島村上氏の御曹司として、村上少尉は自らを鍛えた。
その結果、(この世界の日本の)海軍兵学校に、村上少尉は順調に入学を果たし。
無事に卒業して、将来は日本海軍を担う人材の一人と目される程になったのだ。
更に言えば、現在、村上少尉が乗り組んでいる日本の戦列艦は、トリンコマリーを出航して、ゴア封鎖を行っている他の艦と交代する予定で航行中だった。
褒められたことに安どしていたこともあり、村上少尉は雑談を上官に対して少しすることにした。
「ゴアの封鎖任務は、いつまで続くのでしょうね」
「さあなあ、そろそろ終わりが見えてもいい気がするが、ポルトガルもしぶとい」
上官も少し気を緩めたかったのだろう。
村上少尉の雑談に応じた。
1556年春現在、ポルトガル領インドは断末魔の時を迎えていると言って良かった。
ゴア以外の全てのポルトガル領インドは、日本軍(とそれに味方するインドの現地勢力軍)の攻撃、主に陸海を完全封鎖されてからの兵糧攻めの前に、相次いで無条件降伏を受け入れていた。
そして、日本軍の攻撃を生き延びて、虜囚の身となったポルトガル人のほぼ全ては、オーストラリア等へ運ばれており、そういったことから、ポルトガル本国やゴア等では、他のポルトガル領インドの詳細な情報が掴めなくなっていた。
ゴアは、ポルトガル領インドの最大の拠点として、それなりどころではない防御拠点として、本国の協力も受けて整備がされてはいた。
しかし、1553年にポルトガル本国を出航したポルトガル艦隊が主力を失った末に、何とか3隻だけゴアに入港できたのを、最後に出入港できた船は絶無になっていた。
(そう、日本海軍側は信じていたが、夜陰に乗じての小型船によるポルトガルの封鎖突破は、日本海軍の目を掠めて、実は何度か成功はしている。
しかし、それは飴玉数粒だけで、人が長く生き延びようとするに等しく、ゴアにいるポルトガル人の苦しみを助長させていると言っても過言ではなかった)
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