第15章ー24
そんなことが内幕であったのだが、
1557年の春、コンスタンティノープルで開催された公会議は、無事に終了した。
日本が半ば提案した新暦(史実で言えば、グレゴリオ暦)は、公会議で採用されることが決まり、この年の10月を利用して調整された上で、新暦に移行することになった。
(何故に10月なのか、と言われそうだが。
これは公会議に参加した面々が帰郷し、更に信者に対して改暦について説明し、そして、教会での行事に一番影響が少ない月となると、という観点から公会議参加者が議論を積み重ねた結果、半年程の時間を置くのが妥当で、10月がそういった観点からすれば、妥当であろう、という結論に達したためだった)
この改暦採用に、最も影響があったのが何か、というと、日本が事前に教えた天王星の情報だった。
他に海王星や冥王星の情報も、日本は教えたのだが。
この当時の(望遠鏡等を使用した)天文観測技術では、確実に観測できたのは天王星だけだった。
(尚、日本も屈折式の望遠鏡の提供はしているが、反射式望遠鏡については、約1世紀もの時代、技術格差を考慮した結果、提供を行わなかったために、海王星や冥王星を、東方正教会の委託を受けた天文観測の専門家(?)達は、確実には見つけることが出来なかったのだ。
しかし、天王星は見つけることが出来、更に日本の観測予測の通りの軌道を、天王星が移動していることが確認できたことから、日本の観測技術の精確さが裏付けられたとして、新暦採用の側面援護になる結果がもたらされた)
そして、他にも公会議は様々な決議を行った。
日本が示唆し、意図したキリスト教徒がキリスト教徒を奴隷にし、奴隷として使役するのは許されない、とする決議を、この公会議においては採択するに至った。
また、この当時、ルターやカルヴァンが提唱していたプロテスタント運動について、教会の役割を否定している等を理由に、異端の烙印を、この公会議は捺すことになった。
だが、最大の問題点は、ローマ教皇パウルス4世以下、ローマ教皇庁に属する全ての聖職者、更にそれを支持する信徒は異端である、としてこの公会議の名において、破門に処したことだった。
その理由だが、フィリオクェを、ローマ教皇庁は是認している以上、ローマ教皇庁は異端の教えに染まっている、とこのコンスタンティノープル公会議が断罪したことに起因する。
従って、この当時、ローマ教皇庁等が主導して行っているトリエント公会議(厳密に言えば、この当時は休会中だったのだが)は、異端の聖職者が行っている代物に過ぎない、とこの公会議において事実上は断罪されたのだ。
これに対して、ローマ教皇庁は、すぐさま反論を行ったが。
そうはいっても、8つの総主教の内、ローマ以外の全ての総主教(又はその代理)が参加している公会議が、ローマ教皇庁は異端の教えに染まっている、としてローマ教皇庁を破門に処したのだ。
このことが、カトリック信徒に与えた影響は甚大なものがあった。
(更に、宇喜多直家らを中心とする日本政府の工作員は、この公会議の決議等を知らせる各国語の文書を大量に印刷してカトリック社会にばらまいたので、その影響は更に広がった)
これに対抗するために、再開されたトリエント公会議において、公会議主義を否認し、ローマ教皇の不可謬性を認める聖座宣言を是認すべき等々の動きが見られたが。
そうはいっても、8つの総主教座の内、ローマ以外の全ての総主教座が、ローマ教皇庁を破門しては。
更に言えば、トリエント公会議は、結局のところは、ローマ教皇庁お手盛りの公会議に過ぎないのだ。
ローマ教皇庁やその周囲に、深刻な悩みをこの公会議はもたらした。
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