第15章ー6
そうした会話を、東方正教会の聖職者の上層部とする一方で、オスマン帝国の上層部とも、日本政府の関係者は、東方正教会の改暦のための公会議開催を認めるように働きかけることになった。
オスマン帝国は、言うまでもなく、イスラム教スンニ派を国教扱いしているが、東欧を中心にオスマン帝国の領内に東方正教会の信徒が多数いるのは、公知の事実と言ってよい話だった。
そして、東方正教会の公会議を開催するとなると、オスマン帝国上層部の少なくとも黙認が無いと極めて難しい話になるのは避けられない。
オスマン帝国政府の了承無くして、公会議を開くということは、東方正教会が何らかの陰謀を巡らせているのではないか、という疑心をオスマン帝国政府の要人に引き起こしても、仕方ない話だからだ。
そして、公会議を開くとなると、コンスタンティノープル総主教、アレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、エルサレム総主教の4人の伝統ある総主教座に加え、ブルガリア総主教、ジョージア総主教、セルビア総主教の3人の総主教(又は、その代理等)を集めねばならないのだ。
(細かいことを言えば、ローマ教皇も入るのが本来だが、東西教会が分裂している以上、東方正教会の公会議にローマ教皇を招くとなると、話がややこしくなるのが目に見えているので、最初から除外された)
また、ジョージア総主教以外は、オスマン帝国の統治下にあると言えるが。
16世紀のこの頃、ジョージア総主教は、名目上は独立国であるカルトリ王国の統治下にあるトビリシに総主教座を置いていると言いつつ、実際にはオスマン帝国と断続的に戦争を繰り返しているサファビー朝ペルシャの監視下にあると言っても間違いない現状があった。
(当時、カルトリ王国は独立国と称しつつ、サファビー朝ペルシャの属国と言ってよい状態だったため)
こうしたことも、東方正教会の公会議開催を困難にしていた要因の一つだった。
だが、1555年にオスマン帝国とサファビー朝ペルシャの講和条約(アマスィヤ条約)が締結されたことが大いなる助けとなった。
この講和条約締結に伴い、サファビー朝ペルシャ政府は、ジョージア総主教に対する監視を緩め、日本政府が陰で唱導している公会議開催と、それへのジョージア総主教の出席を積極的に支持はしないが、黙認しても良い、という態度を示しだしたからである。
(これは、サファビー朝ペルシャとオスマン帝国の講和に伴い、日本からサファビー朝ペルシャへの香辛料等の交易が行われ出したのも大きかった。
1552年のオスマン帝国と日本との同盟締結によって行われるようになった、香辛料禁輸を始めとするサファビー朝ペルシャへの日本とオスマン帝国の経済封鎖は、地味にサファビー朝ペルシャの国家経済に損害を与えていた。
こうしたことから、サファビー朝ペルシャ政府は、日本の交易再開の現状に鑑み、日本がサファビー朝ペルシャを敵視して行う訳でもない、東方正教会の公会議開催の動きについて、どうぞご自由に、という黙認の態度を示すことにしたのだ。
なお、サファビー朝ペルシャが、積極的に公会議開催について支持できないのは、サファビー朝ペルシャがイスラム教シーア派を国教としている以上は当然の話で、日本政府もそこまでは望まなかった)
こういったイスラム教世界の状況も相まって、ここに東方正教会の総主教全てが集った上での公会議が開催される地盤が調うという事態が、1556年に発生したのだ。
勿論、ローマ教皇を排除している以上、全地公会議とは呼べないという現実は否定できない。
だが、ここまで総主教が集う公会議が開かれるのは、本当に数百年ぶりと言うのも事実だった。
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