第14章ー13
具体的な地名等を挙げてはいませんが、この頃の北米大陸西海岸の日本の植民地は、現在のカリフォルニア州ロスアンゼルスの周辺が中心ということで、お願いします。
鳥居元忠は語る。
「きちんと母親との対面を済ませた後、竹千代殿は、新しい両親と邸宅で同居する一方、日本から来た私や他の供の者の多くは、竹千代殿達の家族が住まれる邸宅近くのいわゆる長屋に住むことになりました。
そして、狩りの得意な者は毛皮を獲るため、また、羊等を守るための狩りに出かけるようになりました。
最初の頃は、狩りは主に毛皮を獲ることで、そのついでに肉も獲るような感じでしたが。
この頃には、私達が羊を飼い出したことで、羊の味を覚えたコヨーテやピューマがいるようになり、それらを仕留める必要も出てきていたのです。
また、戦の経験がある者、また、腕に覚えがある者は、内陸部の探査に赴きました。
私達が、北米大陸にたどり着いた時には、まだ、金の産地が見つかっていなかったのもあります。
ですが、原住民との紛争や、その後のやり取り等の中で、金を原住民が持っていたことから、どこかに金の鉱山があるか、砂金が採れる筈だ、ということで、その探査も併せて、内陸部に赴き、地形の調査が行われていました。
もっとも、もう一つの方が、現実の観点からは遥かに重要でした。
それはため池等の整備のために、地形調査を行い、また、水脈を確認するという作業でした。
何故か、といいますと、何としても稲作をして、我々は米を食べられるようになりたかったからです。
ですが、それには問題が多々あったのです。
そして、そういったことが得意でなかった者は、主に地道に農民になるしかありませんでした。
もっとも、日本とは全く違う農業のやり方に、最初から戸惑う者ばかりでした。
日本では水田耕作が基本です。
ですが、ここでは水田等、この当時は望むべくもなかったのです。
何しろ、もっとも水田耕作に水が必要な5月から9月の間、ほとんど雨が降らないといっても、過言では無い土地、気候なのです。
だから、ため池(それも池と言うより湖に近い大きな物)を始めとする極めて大規模なかんがい設備無くして、水田耕作等は出来る訳が無く、我々は皇軍知識から得られた地中海式農業で、この土地の農業開発に挑むしかなかったのです。
穀物は、秋に蒔いて初夏に収穫する小麦を主にし、それで足りない分は蕎麦等の雑穀で埋め合わせて。
そして、連作障害を避けて、土地を肥やして地力を回復させるために、小麦を収穫した土地では、実質1年半は、羊を放牧したり、豆類を栽培したりして。
この土地に来るまでは、広い土地を耕して、裕福な生活ができると思っていましたが、それが半ば錯覚に基づくもので、広大な土地無くして、農業が成り立たない土地なのだ、と我々はすぐに認識しました。
また、それだけでは現金収入が得られませんし、食糧等にも事欠きます。
だから、羊毛を刈って、半ば自給自足の毛織物を作って、服を作るような所もありました。
そして、羊を飼っている以上、羊肉や羊乳を使った乳製品も食べるのが当たり前でした。
更に丘陵地には、果樹園を作って、自分達の食糧にし、更に酒を醸すようなことまでしました。
そして、醸した酒を日本に売り込むようなこともしました。
ブドウやかんきつ類等が、そういった果樹園には植えられました。
もっとも、その頃の私の主な仕事は、竹千代殿の相手、教育係でした。
何しろまともに小学校を出たのは、当時の植民地では私くらいでしたから、自分の使った教科書等を使って、竹千代殿に勉強を教えたのです。
そんな生活を半年程、続けた後だったと思います。
私たちの周りが騒然となる出来事がありました。
遂に探査隊の一つが、砂金が採れる場所を見つけたのです。
しかも、それこそザルですくえば、すぐ金が見つかる程だと。
我々は騒然となりました。
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