第14章ー11
鳥居元忠は語る。
「北米大陸について植民地に我々が到着した夜は、よくぞご無事に来られた、ということで、歓迎の宴会騒ぎになりました。
もっとも、移民船が到着する度に、本当は歓迎の宴会をしていましたが、我々は竹千代殿と共に来たので、こんな幼い身でよくぞご無事で、と竹千代殿を見て涙にむせぶ者が出たこともあり、この時の宴会は、実に盛大なものでした。
しまいには、竹千代殿が宴会中に寝入ってしまわれ、私が寝所に連れて行ったのですが、私もそのまま寝入ってしまう程、遅くまで続く宴会になりました。
ただ、その夜の宴会の食事からして、日本とは違う土地に来たのだ、と私はすぐに想わされました。
恐らく、竹千代殿もすぐに気づかれた、と思います。
何しろ、ご飯が無いのです。
宴会が始まってすぐ、いつになったら、温かい白いご飯が出てくるか、と私は期待していました。
この頃の帆船の食事は粗末な物で、温かい白いご飯を帆船上で食べる等、夢の話でした。
だから、上陸次第、温かい白いご飯を食べたい、と夢にまで見る有様だったのです。
しかし、ご飯が全く出てこない。
代わりに出てくるのは、うどんの類でした。
本当はパンが主だったのですが、北米大陸に来たばかりの我々には、うどんの類の方が食べやすいだろう、ということで、うどんの類を出してきたのです。
他にも、おかずが色々と違いました。
肉や野草、山菜が稀どころか、当たり前のように出てきました。
私が、この時に初めて見たチーズまでありました。
(それこそ、初めて食べた時は、私は妙な味がして、噛んで飲み込むのにも一苦労しました)
ご飯は無いのですか、と小声で近くの大人に私が尋ねたら、その人は、
「ここでは稲がまだ育てられないんだ」
と寂しげに言われました。
それこそ、今では違いますが、竹千代殿と共に北米大陸に私達が到着した時は、それこそ皇軍からの資料提供により、いわゆる地中海式農業を試行錯誤して行っている状況でした。
だから、平地では、冬小麦を主に作り、そして、連作障害を避けて、地力を上げるために休耕地を作って、そこでは豆類を育てたり、放牧をしたりしていました。
そして、丘陵地では、蕎麦等の雑穀を育てる一方、果樹等を植えたり、放牧地を設けたりしていました。
従って、この時の我々を歓迎しようにも、我々に米等、出せる筈もなかったのです。
その答えを聞いた時の私の衝撃は、とても言葉で今の人には完全には伝えられません。
今では世界中に日本人が広がっていると言っても、おかしくない状況になっていて、それこそ世界各地でその土地に合わせた農業を営んでいます。
そして、それを誰もが不思議に思っていません。
でも、私がその答えを聞いた時は。
その時の私は、それこそ日本の水田を主にした農業しか知らなかったのです。
確かに牛馬を飼って、それを使って、田んぼを耕すことはありました。
だから、家畜が要ることがあるのは知っていました。
でも、それこそ家畜の肉を食い、乳を絞って、チーズ等を作って、更に羊毛まで利用して、といった牧羊業等、小学校を卒業したばかりということもあり、その時の私の頭の中には無かったのです。
というか、移民船に乗り込んでいた人のほとんどがそうだったのではないでしょうか。
だから、宴会の席で出された料理の数々に、そして、そこに米が無いことを教えられた移民の方々の多くが衝撃を受けたと思います。
実際、宴会が終わって、一夜が明けた後、共に移民船に乗っていた方々の顔色、顔つきは、かなり変わっていました。
ここは日本とは違う農業を行っている土地なのだ、日本とは違う常識の農業をしないといけないのだ、と多くが覚悟をされたのでしょう」
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