第14章ー9
そして、松平広忠と於大の方の間の息子、当時の幼名は竹千代は、実父が死んだことにより、僅か7歳の身で太平洋を横断することになった。
竹千代自身は、余程、思い出したくないことだったのか、余りこの時のことを語っていないが。
(もっとも、7歳だったので、余り細かいことまで覚えていなかったのかもしれない)
この航海に竹千代と同伴したことを発端にして、長じてからも竹千代の側近として、長年に亘って仕えた鳥居元忠によれば、次のような経緯、経路をたどって太平洋を横断したとのことである。
「当時、既に岡崎城は廃城となっており、それに太平洋横断の資金等を捻出するために、松平広忠殿は売れる物は皆、売り払って出発されていました。
だから、当時の竹千代殿の生活は、それこそ庶民も同然の有様で、あれが松平宗家の次期当主の生活か、新天地に早く行くべきでは、と陰で半分あざける者が出る程、質素な暮らしを強いられていました。
実際、新天地(北米大陸西海岸)へ移民した者達が、広大な土地を得て、富を得ている、という噂が、それこそ三河中どころか、それ以外の土地にまで広まっていましたから、私も早く竹千代殿が成長して、新天地に行くべきだろう、と思っていたのです。
竹千代殿の面倒を当時、看ておられたのは、父方祖父の姉、久姫様でした。
尤も弟を早く亡くし、更に夫に先立たたれたり、故あって、再婚後の夫と離婚したりしたことから、仏門に入られていて、久姫様は随念院様と呼ばれるようになっていました。
そして、随念院様の下に、竹千代殿の父、随念院様からすれば甥の松平広忠殿が、病で急死したので、速やかに竹千代殿を、土地を相続させるために、北米大陸西海岸の開拓地に連れてきてほしい、という手紙が届いたのです。
本来からすれば、開拓地まで随念院様が竹千代殿を連れて行くべきなのでしょうが、その頃、随念院様のお歳は50歳程になられていて、とてもではありませんが、この頃の帆船で太平洋を横断する等、とても無理な話でした。
かといって、まさか竹千代殿だけで、遠い開拓地まで太平洋を横断する移民として行くのは、もっと無理な話です。
随念院様は、周りの方々と相談し、自分の実子である松平親乗殿に、北米大陸西海岸の開拓地まで竹千代殿を連れて行ってもらうことにしました。
そして、僅かな人数で太平洋を横断するのもどうだろうか、と随念院様は言われて、竹千代殿と共に北米大陸西海岸の開拓地に同行する者を募られました。
私は、当時、小学校を出たばかり(この頃の小学校は4年制)でしたが、太平洋を横断して富を手に入れたい、と幼心に想っていて、父に直訴して、竹千代殿に同行しました。
もっとも、父の鳥居忠吉自身も、松平広忠殿に対する忠誠心が篤い人で、松平広忠殿が太平洋を横断する際には、寄付金を惜しまなかった程です。
更に、松平広忠殿が、鉄砲を入手するのにも、父は協力、加担したと聞いています。
(鳥居忠吉は、武士というよりも商人の肌合いが濃い人物で、矢作川水運と東海道が交わる岡崎の立地を活用した商売により、富裕な人間として周囲に知られていた)
本当は松平広忠殿に父も同行したかったのでしょうが、何しろ既に50歳近い身だったので、同行したくとも自分が足手まといになると考えて、同行できなかったのだと思います。
だから、私が自発的に太平洋を横断したい、と言い出したのは、文字通り、父にとって渡りに船の心境だったのではないでしょうか。
そして、私は松平親乗殿に半ば率いられ、竹千代殿らと共に岡崎を出発して、北米大陸西海岸の開拓地へと遥々、向かうことになりました。
まず、移民船の出る大坂に私達は向かいました」
ご感想等をお待ちしています。