第13章ー13
マニラを独立歩兵大隊で確保している間に、援軍を日本本土等から送り込み、それによって、スペイン軍の侵攻があった場合には、スペイン軍をはね返そうという考えである。
こうした考えから、半ば史実と同様にコレヒドール島も日本軍によって要塞化等されて、マニラ湾の防備の一環を担うことになった。
なお、この際に少なからず横道にそれるが、説明しておくと。
1552年当時の日本陸軍の東南アジア方面の防備の一環として、マニラ以外に、シンガポール、バンダアチェに、独立歩兵大隊1個がそれぞれ防衛のために配置されていた理由だが。
(ちなみに、一時はシャム王国内にも、独立歩兵中隊1個が配備されていたが。
シャム対ビルマ戦争の少し後、ビルマ国王のタビンシュエーティーが、主にアルコール依存症から来る様々な疾患で病死(なお、暗殺説も根強い)したことから、ビルマ王国内が混乱を来したために、ビルマ王国からのシャム王国への脅威が低減されたとして、シャム王国の要請もあり、シャム王国内への日本陸軍の部隊配備は取りやめられていた。
もっとも、日本とシャム王国の同盟関係は維持されたままであり、シャム王国から要請があれば、日本からそれなりの兵力が援軍として向かうことになってはいた)
バンダアチェについては、属国であるアチェ王国に対する無言の威圧と、ポルトガル軍の侵攻に備えてのものだった。
そして、シンガポールにいる部隊は、ポルトガル軍がアチェ王国、マラッカ王国に侵攻してきた場合の即応部隊としての側面と、スペイン軍がフィリピン群島への侵攻を行った場合の即応部隊としての側面という両面から展開していた。
当時のインド洋に展開していたポルトガル軍の陣容からして、アチェ王国やマラッカ王国への侵攻作戦に投入できるポルトガル軍の陸上兵力は、最大限に見積もっても約3000と見積もられていた。
その侵攻軍に対して、独立歩兵大隊2個があれば、兵器等の優越から互角以上に戦える、と日本陸軍は考えていたのだ。
また、スペイン軍がフィリピン群島への侵攻作戦を行うとした場合、メキシコを拠点としての侵攻作戦を行うことになる。
史実で行われたスペイン軍の遠征規模からして、その侵攻兵力は、最大でもスペイン兵1000を超えることは無いと考えられた。
何しろ、太平洋を横断して侵攻作戦を発動しようと言うのだ。
しかも、間にまともな補給拠点も無しにである。
まずは、フィリピン群島の一部に拠点を構え、その上でマニラ攻略を図り、その後は徐々にフィリピン群島の征服を遂行していくのが、幾ら当時、世界の超大国の一つとなっているスペインといえど、精一杯であると考えるのが妥当なところだった。
(後、これだけしか日本軍が兵力を配置できなかったのは、この当時は、熱帯の伝染病対策が、まだまだ不十分だったという側面も見逃せない。
マラリア等の熱帯の伝染病対策として、蚊の駆除を図り、食事等にも気を配り等々の対策を行ってはいたが、どうにもこの当時に手に入る物だけでは限界があったのだ。
例えば、蚊対策として極めて有効に働いた蚊取り線香一つにとっても、皇軍のもたらした知識によって作られた蚊取り線香が量産化され、日本国内で普及しだすのは、1560年代に入ってからのことになる。
何故かというと、オスマン帝国との交渉(岩畔使節団)によって、コーヒー以外にも様々な物産が当時の日本に初めて入手されたが、その一つが除虫菊だったのだ。
そして、除虫菊を栽培して蚊取り線香を量産化して、となると幾ら知識があっても、すぐにできることではない。
このような問題から、日本国外に配置する部隊を制限しないといけない状況があったのだ)
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