第13章ー3
もっとも、ポルトガルのマラッカ奪還作戦が失敗したのは、単純に戦力不足だけが原因であるとは、少し言い難いものがあった。
ポルトガルに情報が伝わる前に、日本はアチェ王国やマラッカ王国と協働して、のろし台等を利用した連絡網を整備して、マラッカ海峡をポルトガル艦隊の死の海にしたからである。
相互に目視可能な距離にのろし台を整備し、それによって、三国間の連絡網を整備することにした。
その一方で、日本軍の軍事機密情報を伝えるために、腕木式の通信網が別途整備された。
(これに触発されて、アチェ王国やマラッカ王国では、旗振り式の通信網を国内に整備した)
そのため、ポルトガル艦隊によるマラッカに対する奇襲攻撃は、ほぼ不可能になっていた。
マラッカ海峡の入り口で発見されたポルトガル艦隊は、マラッカに接近するまでに、マラッカ艦隊が展開することになり、更にシンガポールから日本艦隊が駆けつけるという状況になったのだ。
そして、バンダ・アチェからもアチェ艦隊や日本の分遣艦隊が出航して退路を断つという事態になる。
ポルトガル艦隊にしてみれば、マラッカ沖が死地になるのは、半ば当然だった。
後、ポルトガル艦隊が小規模だったのもある。
この頃のポルトガルのインド洋の勢力は、まだまだ強力だったが、流石に戦線が広がり過ぎていた。
オスマン帝国と戦い、インド亜大陸でも抗争に巻き込まれ、セイロン島でも後述する王国間の紛争に介入せざるを得ない状況に、ポルトガルは追い込まれていた。
そして、マラッカ奪還のためにもポルトガルは戦わねばならない。
一方、日本の方は、確かに明、朝鮮と非正規戦争を戦っていたが、基本的に倭寇に任せており、陸海軍の主力は、マラッカ、インド洋方面に向けることが出来た。
つまり、この時、ポルトガルは複数の戦線を抱え込んでいるのに、日本は一つの戦線に集中できた。
更に人口と言う国力差がある。
この頃、日本の人口は、本土だけでも1000万人を確実に超え、オーストラリア等の植民地の人口を加えれば、日本人は1200万人を超えようとしていた。
更に、植民地には他に現地人もいる。
これに対し、ポルトガルの人口は、植民地の人口に現地人を加えても、200万人には到底達せず、ポルトガル人は、100万人台前半と推定されていた。
つまり、約10倍もの人口差があったのだ。
それを補うために、外国人傭兵(奴隷)を集めることで、ポルトガル軍は戦力を維持したが、それは必然的に、量の維持にはつながったが、質の維持にはつながるどころか、逆に質の低下をもたらした。
更に武器の格差も加わる。
ポルトガル軍と日本軍が装備する武器を比較した場合、ポルトガル軍の方が劣っていた。
ほぼ歩兵全員が、銃剣付き前装式ライフル銃を装備している日本軍に対し、火縄銃や槍を装備しているポルトガル軍。
更に大砲を、日本軍も装備しつつあった。
こうした差が織り込まれたことから、日本軍のインド洋方面への侵攻作戦が決断されたが、日本としては戦線を広げ過ぎて、戦力を枯渇させる愚を犯すつもりは無かった。
そのために、インド亜大陸への攻撃は取りやめられ、セイロン島のみに侵攻することにしたのだ。
セイロン島の現地勢力、王国に肩入れすることで、親日の王国にセイロン島の統一政権を樹立させて、その王国にセイロン島を統治させる一方で、セイロン島に日本軍の拠点を構える。
それを、日本の当面の目標とすることにした。
そして、インド亜大陸に置かれたポルトガルの拠点を孤立、無力化させて、数年かけて立ち枯れさせ、その上で、東アフリカ方面のポルトガルの拠点を、オスマン帝国と協働して、徐々に潰していこうと日本は考えていた。
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