第13章ー2
真田幸綱の名前については、真田幸隆の方が、世間的には通用しているようですが。
私なりに調査した限り、実弟の矢沢頼綱の名前等から、真田幸綱の方が良い、と考えて、作中ではそのように呼称しています。
なお、それと似たような理由から、世間的に通用している名前と、登場人物の名前が微妙に食い違う事態等が多発します。
1552年4月、シンガポールに展開する日本陸海軍合同の司令部の一室。
そこでは、真田幸綱陸軍少佐が、インド洋方面の情報分析に専念していた。
「ふむ。セイロン島の諸勢力の現状は」
思わず、真田少佐は独り言を呟いた。
アチェ王国やマラッカ王国からの情報もあり、東インド洋方面の交易に赴いた日本の商船から提供された情報もあり、情報自体は豊富と言える。
だが、この情報は、基本的に全てが伝聞だ。
その正確性には疑問が常に付きまとう。
「セイロン島に現地諜報員を置きたいが、流石に見ず知らずの土地には置けないからな」
真田少佐は少しぼやいた。
探査船はともかくとして、日本の商船は、基本的にカルカッタ辺りまでしか赴いていない。
マドラス等にも赴きたいのだが、ポルトガルの目が光っており、流石に危険が大きすぎる、と日本政府は、日本の商船が赴くことを禁止している。
従って、どうしてもインド洋を航海するイスラム商人等に情報を頼らざるを得ない。
そうしたことから、情報の正確性について、真田少佐が苦吟していると、実弟でもある矢沢頼綱大尉が、新たな資料を運び込んできた。
というより、兄が苦悩しているのを見かねて、相談相手になろうとして来たらしく。
「そんなに難しいのか。かなり悩んでいるようだけど」
矢沢大尉は、開口一番にそう兄に声を掛けた。
「ああ。一人で悩むのに疲れた。お前を相手に、半ば独り言を言わせてくれ」
真田少佐は、弟を相手に話すことで、自分の考えを整理することにした。
「まず、ポルトガルが、マラッカ奪還作戦を何度か試みたのは、当然に知っておるな」
「勿論、知っている。ただ、どちらかというと威力偵察に近かった覚えが」
兄の問いかけに、弟は即答した。
1548年に、ポルトガル領マラッカが、日本と(当時の)ジョホール王国の連合軍による攻勢によって、完全に占領されたのは、日本の軍人にしてみれば公知の事実だった。
更に、ほぼ同時に三角戦争状態にあったアチェ王国も、日本の属国になっている。
その結果、ポルトガル領マラッカのほぼ全てが、ジョホール王国の領土となり、ジョホール王国は、新たにマラッカ王国として復活した。
その一方で、シンガポール島は、マラッカ王国から日本に戦争協力への見返りとして割譲され、日本の東南アジアにおける最大の軍事拠点として整備が進められることになった。
そして、この情報をできる限り、ポルトガルには伝わらないように、日本は努めたが、流石に完全に伏せておくことはできず、徐々にマラッカが失われたことが、ポルトガルには伝わった。
(マラッカ方面に向かったポルトガル船のみならず、ポルトガルの発行するカルタス(通行証)を持っている商船までが、ポルトガルの手先であるとして、マラッカ海峡以東で日本やマラッカ王国、アチェ王国、シャム王国等の軍艦に発見されたら全てだ捕等されていて、その際に助命されて捕虜になった乗組員のほぼ全員が、シベリア送りならぬ、オーストラリア送りになっていては、当然の話だっただろうが)
1549年も終わりの頃になると、カルタスを持って、マラッカ海峡以東に赴く商船は絶無になった。
マラッカ海峡以東に行ったら、ほぼ確実に行方不明になる。
そんな海域に行きたがる命知らずの船乗りが、どれだけいるだろうか。
日本に味方する商船は、カルカッタ辺りでの交易に専念した。
そして、ポルトガルに味方する商船もカルカッタ辺りでの出会い交易で、当面はしのぐことになった。
だが、ポルトガルは、それで満足する訳には行かず、マラッカ方面に軍艦を派遣し、あわよくばマラッカ奪還までも図ろうとしたが。
派遣する兵力が、不足していたことから失敗したのだ。
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