第13章ー1 セイロン島侵攻作戦
新章の始まりになります。
少なからず時が戻る。
実は、オスマン帝国への使節団派遣と相前後して、日本はインド洋におけるポルトガルの拠点の一つであるスリランカ、セイロン島に対する攻撃を行おうとしていた。
これには、幾つかの原因が絡み合っていた。
まず、日本側の事情から述べれば、1552年現在、前線に派遣できる陸軍の部隊は、ほぼ全て銃剣付きの前装式ライフル銃を歩兵は装備し、更に砲兵を随伴できるようになりつつあるという現実があった。
流石に日本国内の治安維持や後方警備に当たる部隊の装備については、まだまだ火縄銃が現役で、砲兵にも事欠く有様ではあったが、少なくとも前線に配備される部隊では、火縄銃部隊がほぼ消えていたのだ。
このように陸軍部隊の装備の向上が進んでいた。
また、海軍の強化も徐々に進んでいた。
この頃、南シナ海の警備に当たり、また、インド洋方面の攻勢を行うため等のために、シンガポールに駐留する日本海軍の主力艦は16隻に達し、また、フリゲート艦も20隻に達していようとしていた。
(達していた、という表現になるのは、日本本国からの派遣や、インド洋方面への通商破壊や逆に商船護衛等のために航海中の艦が存在するからである。
これらを全て合わせれば、1552年現在、日本海軍は主力艦やフリゲート艦を併せて、100隻以上を数える軍艦を保有する世界有数の海軍国に今や成長していたのだ)
更に言えば、日本海軍の軍艦の質の向上も進んでいた。
流石に外洋航海用の蒸気船については、未だに試作を繰り返している段階だったが。
(これは、スクリュー採用に、日本海軍が拘ったのも一因だった。
未来知識から、外輪船よりもスクリュー船の方が優位なのは明らかだったので、半ば一足飛びにスクリュー船を製造しようと、海軍関係者は逸ってしまったのだ。
もっとも、この当時、日本以外では蒸気船製造等、夢にも考えていなかったことからすれば、最初から不満足な艦になりかねない外輪船よりも、少々時期が遅れても、スクリュー船を製造すべきだ、という主張も全く理屈が立たないとは言い難い)
帆船にしても、未来知識を導入することで、速度や航行性能の向上を図っており、この当時のほとんどの帆船よりも優速、航行性を上回るようになっていた。
それに武装の差がある。
日本の船(軍艦のみならず商船まで)に搭載する大砲は、ライフル砲が通常装備となっていた。
そのために、ポルトガル船等と遭遇した場合、いわゆるアウトレンジによる砲撃さえも、日本の船は事実上は可能になりつつあった。
接近戦でも、商船の船員でさえ、自衛のために銃剣付きの前装式ライフル銃を装備しており、火縄銃や槍で戦わざるを得ないポルトガルに対しては、武装の質の優位を確信して戦うことが出来た。
(こうしたことから、日本の商船は、ポルトガルの軍艦を返り討ちにすることさえもあった。
カルタス(通行証)の提示をポルトガルの軍艦が求めてくると、武装している日本の商船は逆襲した。
商船と想って襲う相手の方が、武装が強力なのだから性質が悪い。
ポルトガルの軍艦の方が、日本の商船から逃げ出すことさえ起こっていた)
こうした軍備の充実もあり、シンガポールの拠点整備も完了したことから、日本によるセイロン島侵攻作戦が発動されることになったのだ。
スリランカの現地勢力と協働し、ポルトガルをセイロン島から駆逐する。
そして、オスマン帝国と日本は同盟を結ぶ。
これによって、インドのポルトガル勢力を立ち枯れさせてしまい、更に数年後には東アフリカのポルトガルの拠点を攻撃、喜望峰より東のインド洋からポルトガル勢力を完全に排除しようと言うのが、この頃の日本のインド洋方面戦略だった。
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