第12章ー19
こうして、欧州諸国の最新情勢を確認した後で、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルを、日本の使節団は出立した。
更に1月余り後、12月末も押し迫った頃に、日本の使節団はアガバ港に到着することになる。
実はオスマン帝国は、この旅程にいい顔をしなかった。
ちょうど、イスラム暦の巡礼月である12月と、ほぼ重なることになるからである。
そのため、道中の旅人が多く、使節団が帰途に着く際に苦慮する事態が生じたのだ。
また。
「折角なので、メッカへの巡礼を果たされては」
「敬虔なイスラム教徒として、私もできたらそうしたいのですが、少しでも早く日本に帰国し、行方不明の母を探し出したいのです」
心からの親切な想いから、上里美子は周囲の何人ものイスラム教徒から忠告され、その度に良心がうずく羽目にもなった。
なお、シンガポールを出港した後、上里美子の仮名、アーイシャ・チャンを名乗る少女は、日本を目の前にして船上で病死し、水葬されたことになる予定だ。
オスマン帝国の外交官等に、美子の真の素性を知られないためだ。
そのために顔を覚えられないように、外では美子は、アバヤを着込んで素顔を常にほぼ隠している。
オスマン帝国の外交官等にしても、あの少女は病死して水葬した、と言われては、それ以上のことを探りようもあるまい、という判断からだった。
何しろ、この当時の船旅は、事故死、病死が半ば付き物だ、それを一々疑う理由はない。
更に家族を訪ねようにも、アーイシャ・チャン自身が、父は殺され、母は行方不明と言っている。
だから、素性を探りようも無いのだ。
それで、アーイシャ・チャンについては闇に葬られる予定だった。
そして。
日本の使節団が、アガバ港にたどり着いたのは、イスラム暦での大晦日、1552年の12月27日になっていた。
そのため、イスラム暦の新年に出航というわけにも行かず、それに正月は地上で迎えたい、という声も使節団内から上がったことから、1553年1月2日に日本の使節団は出航を果たすことになった。
そして、日本の船に無事に乗り込んだとはいえ、アチェ王国やマラッカ王国から提供された通訳(彼らは全員がイスラム教徒だった)の目がある。
美子は敬虔なイスラム教徒の振りを続けざるを得なかった。
そのため、妙な誤解が生じてしまった。
「なあ、三条美子殿は、いつイスラム教徒に改宗されたのだ」
「何でも首都コンスタンティノープルで想わぬことがあって、それで改宗したとか」
「かなり不味い気がするが。だって、本願寺顕如様の義姉だろう」
「そうだよな。義弟に怒られる程度で済めばいいがな」
そんな感じで、間違った噂が広まって、アガバ港残留組は首を捻る羽目になり、美子は後ろめたさを痛感せざるを得ない事態が生じた。
約3月に及ぶ航海の末に、シンガポールに日本の使節団は入港し、通訳の面々は全員下船した。
そして、シンガポールから祖国日本への航海に、日本の使節団は出立したが。
誤解を解いて、一応、ケジメをつけるために。
(なお、シンガポールを出港した翌朝、いわゆる早朝の礼拝を忘れたとして、美子は慌ててしまい、おい、もうシンガポールを出港したぞ、と岩畔使節団長に言われて、そうか、もうイスラム教徒の振りをしなくていいんだ、と美子はホッとした)
岩畔使節団長が音頭を取って、美子がイスラム教徒の振りをしていたこと、それについては厳重に沈黙を守ることについて、他の使節団員に改めて説明がなされることになった。
(なお、一部の使節団員はそれを聞き、アーイシャ・チャンの水葬をすべきだ、と言った)
それによって、日本の使節団内部の誤解は解けたが。
美子自身にとっては気が重い件となった。
ご感想等をお待ちしています。