第12章ー11
話の中で、上里(三条)美子が、ロクセラーナ皇后陛下と会話を交わしていますが。
最初の挨拶はトルコ語で、その後は、アラビア語で会話をしています。
(美子は、トルコ語では挨拶が精一杯で、アラビア語なら日常会話ができるレベルです。
ロクセラーナ皇后陛下が、アラビア語会話ができるのか、私の調査では不明でしたが、イスラム教徒なので、アラビア語がある程度は分かる、と判断しました)
その日、上里美子は薄氷を踏むような想いをしつつ、頭の片隅では自分の置かれた状況を愉しんでいた。
ついさっきまでは三条家の姫君だったのに、今の自分は自分から奴隷の身分に堕ちた身だ。
さて、本当に奴隷の身分から解放されるのだろうか?
トプカプ宮殿の奥のハーレムに入るとなると、男性の身では極めて難しい話になる。
だが、美子のような少女だと、ある意味、簡単な話だ。
スルタン等に献上される少女奴隷になれば済む。
岩畔使節団長は、スレイマン1世の寵臣にして娘婿になる大宰相リュステム・パシャを介して、美子をスルタン等に献上する少女奴隷の1人ということにして、トプカプ宮殿に入らせることにした。
そこで、美子はロクセラーナ皇后陛下に新参の少女奴隷として挨拶する、という手筈になっている。
時期外れの奴隷献上にはなるが、ロクセラーナ皇后陛下の娘で、大宰相リュステム・パシャの正妻ミフリマー・スルタンが、思いがけない事情のある日本から来た少女奴隷の話を聞いて、両親に献上するという名目だ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、その言葉を噛みしめながら、美子はトプカプ宮殿に入った。
「本来の名は、アーイシャ・チャンと申します」
「ほう、どういうことでそのような身になった」
新参の少女奴隷としての挨拶をした直後の自己紹介で、美子はそう名乗り、ロクセラーナ皇后陛下はそう鷹揚に美子に尋ねた。
「はい」
美子は、懸命にカバーストーリーを語る羽目になった。
ジョホール王国生まれの華僑であり、両親はイスラム教徒だった。
ポルトガルの奴隷狩りで、父は殺され、母と私は奴隷として売られた。
転売の果てに日本に流れ着き、私は語学に長けていたので、ここまで日本の使節団に通訳奴隷として連れて来られた。
母は一時は金持ちの愛妾となったようだが、正妻から迫害され、家から追い出されて今は行方知れずだ。
「今の主に言われました。賭けをしよう。ロクセラーナ皇后陛下の心を動かし、トプカプ宮殿から生きてすぐに出られたら、自由の身にしてやると。どうせ、奴隷の身ならと賭けに応じたのです」
美子は話をそう締めくくった。
「娘からは、そなたは頭が良い、と聞いておるが、語学の才以外に何がある」
自分の身の上話は、それなりにロクセラーナ皇后陛下の心を動かしたようだが、ロクセラーナ皇后陛下自身が誘拐されてここに来た身である。
もう一押しが必要なようだ。
ロクセラーナ皇后陛下の言葉は、そのように美子に聞こえた。
「それでしたら」
美子は、微笑みながら、コーランの一節を朗唱してみせた。
コーランの第2章の中でも長い一節だ、覚えるのには苦労した。
「ほう。ハーフィズになるつもりか。きちんと合っているようだ」
「はい。私はイスラム教徒です。異郷にあっても、神の教えは捨てませぬ。懸命にコーランを忘れまい、と努力をしております」
「うむ。そこまで信仰篤い者とは」
ロクセラーナ皇后陛下は美子の言葉に感動したようだった。
美子は冷や汗を内心でかいた。
まさか、婚約者の久我晴通避けのための勉強で懸命に覚えた等、口が裂けても言えない。
「最初に見た時は、息子のセリムに宛がう女奴隷に良いか、とも想ったが」
ロクセラーナ皇后陛下の言葉に、美子はぎょっとした。
私の知識が正しければ、将来、セリムはスルタンになる筈。
私は奴隷の身のままで、スルタンの愛妾になった可能性が。
「お前を自由の身にしてやろう。それから、日本との同盟について、夫に働きかけをしてやろう」
続けてのロクセラーナ皇后陛下の言葉に、美子は安堵の余り、思わず涙がこぼれた。
「ありがとうございます」
何に対して感謝をしての言葉なのか、美子自身にも何故か分からなくなっていた。
少し補足すると、美子は冷や汗をかいていますが、セリム王子(?)は、この時点では史実同様に、スルタン位継承からは、かなり遠い立場です。
だから、ロクセラーナ皇后陛下は、気軽に息子に女奴隷を一人、宛がうだけのつもりで言っていますが、史実を知る美子は、将来、セリムの傍に侍ることになりかねなかった、と冷や汗をかいたのです。
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