第12章ー7
1月程を掛けて、大阪からシンガポールに使節団は直航し、シンガポールで新鮮な野菜等を積み込んだ。
また、予めマラッカ王国やアチェ王国に依頼していた通訳人も乗り込んできた。
そして、日本の前進拠点になっているバンダアチェで、最終的な補給を行った後、紅海に面している港アガバへ日本の使節団は向かうことになる。
この時点で、日本の使節団の多くの者が、既に望郷の思いに駆られていた。
何故かと言えば。
「久々に熱々のご飯を食べられる」
と多くの者が思いこんでいたら、シンガポールで饗されたのが、いわゆるインディカ米、長粒米のご飯だったのだ。
当然のことながら。
「パサパサで不味くてかなわん」
という(反動もあって)不平不満が、使節団の中で渦巻くことになる。
更に、オスマン帝国等では、こういった米しか食べられないと使節団は教えられたのだ。
だから、使節団の多くがうんざりしてしまった。
そして。
「こんな米、日本の米とは比較しようもない。本当に不味い米と思いませぬか」
久我晴通は当然のように上里美子に言ったが、美子にしてみれば、この人とはやっていけない、と完全に思うようになった。
何しろ、美子はシャム生まれである。
だから、むしろインディカ米、長粒米の方を、美子は当然で美味しいと思っているのだ。
また、シャムにとって、米は大事な輸出品である。
自分が生まれ育った土地の米を不味い、とけなされたようなもので、美子は不快感を覚えた。
そうは言っても、いわゆる大人の対応を、口先では美子はしたが、この一件は美子に婚約破棄を完全に決断させることになった。
だから。
「すみません。アラビア語を教えて頂けますか。代わりに、日本語を教えますので」
「おお、それはありがたい」
シンガポールで乗り込んできたアラビア語通訳人の何人かに声を掛け、美子は積極的にアラビア語の勉強に励むことになった。
まずは、ある程度は分かるようになったアラビア語を習得し、更にトルコ語を学ぼう。
こうすれば、勉強に忙しいとの理由で、久我晴通を避けることができる。
美子は、そうすることで婚約者からアガバに向かう航海の間、逃げ回っていた。
その一方。
「暑いなあ」
織田信長は、シンガポールを出港し、バンダアチェに一時、寄港した後、アガバ港に向かう船旅の中で、他の者と共にインド洋の暑熱に苦しんでいた。
使節団の面々は、ある意味、手持無沙汰であり、日陰で過ごせるのだが、信長は下級船員と同じ扱いなので、日なたでの作業が多々あるのだ。
それこそ、艦長等の指示に従って、風向きに応じて、帆の向きや数の調整をせねばならず。
また、万が一のポルトガル船や海賊船との遭遇に備えて、大砲を撃つ練習までさせられる。
甲板磨き等も、その合間にはせねばならない。
スコール等の雨があれば、少しでも雨水を貯めようと走り回らねばならない。
食事にしても、当初は生の野菜(根菜)があったが、すぐに漬物等の保存食のおかずに、主食は水でもどした糒といった代物になる。
脱水症状を警戒するのと、そんなものを積むスペースがあれば、水や食料を積むという発想から、酒類も飲めない(もっとも、信長は下戸なので、この点は余り苦にはしなかったが)。
少しでも美味い物を、艦長や使節団の面々は食べているのでは、と信長は勘繰ったが。
知り合いの厨房員に言わせれば、艦内では同じ食事が供されている、むしろ、下級船員の方が艦内作業の関係で量が多いと指摘されては、我慢せざるを得ない。
「これは、本当に志願するのではなかったのではないか」
そう信長は観念しながら、暑さと作業に苦しみつつ、オスマン帝国へ、そのためにアガバ港を目指す船に乗り込んでいく羽目になっていた。
織田信長の扱いが酷すぎ、と言われそうですが。
この世界の現時点では、織田信長は、それこそインド株式会社の単なる新入社員に過ぎないので、この扱いも半ば仕方ないのです。
(上里美子も同じでは、と言われそうですが、彼女は、使節団次席の久我晴通の婚約者で、清華家の三条家の姫君であり、インド株式会社の代表取締役の一人、上里松一の娘です。
この世界では、無位無官の織田信長とは、比較にならない程、上位になります)
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