第12章ー6
インド株式会社における、いわゆる幹部候補生の一員として、織田信長は採用されていた。
(勿論、その裏では既述のように本願寺の働きかけがあり、上里松一と陸軍幹部の密談があったのだが)
そして、いわゆる新入社員研修の場において、教官からオスマン帝国に日本から赴く使節団の末席に加わらないか、という誘いかけが全員にあったのだ。
これに信長は、半ば反射的にのってしまった。
信長にしてみれば、少しでも早く出世するきっかけになれば、という想いからだった。
だが、誘い掛けにのって乗船した後で、半ば騙されていたことに、信長は気づいてしまった。
確かにオスマン帝国への使節団の末席に加われたのは事実なのだが、その仕事の内実は、末端の水兵に与えられるような仕事が主であり、信長は酷使される羽目になった。
もっとも、これには更なる裏もあった。
松一は、オスマン帝国への使節団が座上した船団を大阪港から見送った後、内心で呟いた。
「信長には、最初に苦労して、頭を打ってもらわないとな。その上で史実通りの人柄か見極めよう」
そう、この一件には松一も絡んでいたのだ。
松一にしてみれば、信長は諸刃の刃だった。
確かに史実に鑑みれば、信長が有能な人材なのは間違いない。
だが、この世界でも、本当に織田信長が有能なのかを確認する必要がある。
史実通りに織田信長が有能なのか、また、人柄はどうなのか、この1年の航海で岩畔豪雄将軍らに視てもらおうと考えたのだ。
更に、松一にしてみれば、信長にある程度の下積み経験をさせようとも考えたのだ。
ともかく、そうしたことから、信長は雑魚寝を他の船員らと共にしていた。
「納得いかん。確かにオスマン帝国への使節団の一員になったというのは、今後のことで箔が付くが、そのために何でこんな苦労をする羽目になっているのだ」
信長は、周囲のいびき等の音や臭いに苦しみつつ、何度目かの呟きを内心でしていた。
もっとも。
この時にオスマン帝国への使節団が乗り込んでいる船団は、この当時の他の船に比べれば、遥かに乗組員たちにとって良い状況だったのは間違いなかった。
それこそ、皇軍来訪以来の10年に及ぶ試行錯誤と、未来知識の結晶が陰で凝らされていた。
まず、第一に、所詮は帆船とはいえ、帆装等に様々な改良を施された結果、この当時からすれば、かなりの快速を誇るようになっていた。
オスマン帝国まで1年掛かりの往復予定とはいえ、実際の航海(大阪からアカバまでを予定)に掛かる時間は、上手く行けばだが8か月を切る、と推算されていた。
いわゆる縦帆を積極的に活用することにより、風上へもかなり間切れるようにもなっている。
だから、ポルトガルの船団や、また、海賊の船団に遭おうとも十二分に逃げられると考えていた。
(船団の武装からして、逃げる必要は乏しかったが)
そして、そのことは船員の消耗を相対的に軽減している。
更に食事にも改善が図られていた。
寄港地では新鮮な野菜を積み込んで食べさせ、それが尽きたら、漬物等を連日、乗組員には摂らせることで、壊血病等を予防している。
更に、まだまだ試作品に近い代物で、商業化して市場に出回るレベルには遠かったが、缶詰でさえも日本の帆船は積んで、乗組員は食べることが稀ではなくなっていた。
こういった食事面の改善が、当時の外国の船では行われていないことを知らない当時の日本人の面々にしてみれば、航海中はこんなしょぼい食事(そうは言っても、航海中の船上でご飯を炊く訳にはいかないので、主食はいわゆる糒になるのだ)でつらい、と陰で泣く羽目になるのだが。
当時の欧州諸国の船乗りにしてみれば、何とぜい沢な、と羨ましがられること間違いなしだった。
最初は壊血病予防にレモンジュースを飲ませる予定でしたが、当時はレモンが日本に無いらしいことが判明し、ライムなら確実に手に入るけどビタミンCが不足気味、といったことから、柑橘類のジュースを壊血病予防に飲ませるのは断念して、ぼかして描くことにしたという裏事情が(文旦等で何とかなる気もするのですが)。
ご感想等をお待ちしています。