第12章ー5
そういった上里家にしてみれば、大騒動があった末に、日本からオスマン帝国への使節団は、1552年4月末に日本、大阪港から出航していった。
ちなみに、この使節団は、この当時の日本海軍の主力艦1隻と護衛を行うフリゲート艦2隻から成る小艦隊で編制されている。
インド洋で日本と敵対するポルトガル船なり、海賊船なりと遭遇するリスクを考えると、使節団に護衛を付けない訳には行かなかったのだ。
もっとも、主力艦は使節団の面々が乗り込んでいる関係から、戦闘用の乗務員が削られており、実際の戦力としては、フリゲート艦1隻程度に過ぎなかった。
それでも、張子の虎としての役割が期待されてはいた。
そして。
「三条美子殿、余りにも婚約者に対して無粋では」
「申し訳ありません。色々と私は勉強しないといけないのです。私は通訳として乗り込んだ身ですので」
「そんなもの、後でされても構わないでしょう」
「三条美子殿が言われる方が正しい。美子殿、しっかり勉強してくれ。やはり重訳というのは、誤訳が怖いからな。日本語を直接、アラビア語なり、トルコ語なりに翻訳できるようにしてくれ」
「岩畔使節団長のご期待に添えるように、懸命に努力します」
こんな感じで、久我晴通は上里(三条)美子にちょっかいを掛けては、岩畔豪雄将軍が阻止する事態が、日本を出港して早々に多発した。
晴通にしてみれば、美子を正室に迎えられれば、色々と美味しい話になる一方で。
美子にしてみれば、冗談ではない、という想いが先立ち、岩畔将軍にしてみれば、美子の養父の上里松一の依頼もあって、妨害する事態が起きたのだった。
そして、美子の態度も、あながち久我晴通避けとはいえなかった。
「アラー、アクバル云々」
美子は、実際には通ったことが無いが、初等女学校卒業の学力を持っており、日本語の書籍をある程度は読むことができる。
いわゆる皇軍が20世紀から持参した書籍の中には、イスラム教の聖典コーランの日本語対訳書があり、美子は父のコネを最大限に活用等して、それを勉強の資料として入手していた。
それを活用して、美子はオスマン帝国に着くまでに、アラビア語を少しでも習得しておこうと奮戦しており、それこそイスラム教徒のように、コーランの朗読等をすることで覚えようとしていた。
もっとも。
父に言わせれば、アラビア語の発音と日本語の発音は異なっており、更に肝心の日本語対訳書のアラビア語の発音表記が、いわゆるカタカナ表記なので、どこまで当てになるのか、といえば極めて心もとないが、美子にしてみれば、ハッキリ言って無いよりは遥かにマシな話なのは間違いなかった。
そして、美子は、使節団の次席になる久我晴通の婚約者であり、(表向きは)猶子に過ぎないが、清華家の一つ、三条家の姫君にもなる。
だから、使節団の座乗する船において、個室を与えられた数少ない面々の一人になっていた。
(使節団の多くが相部屋になっており、中にはいわゆる雑魚寝をしている面々も珍しくなかった。
それこそ後述するが、使節団の末席に加えられた織田信長は雑魚寝組の一員だったのだ)
だから、個室であることをいいことに、誰はばかることなく、コーランの詠唱を美子はしていた。
「ああ、臭い。更に妙な祈りの声も聞こえる」
織田信長は、船首に近い寝所(といっても、ハンモックが並んでいるだけ)で、眠ろうとしていたが、臭いと音に、雑魚寝をしている他の船員と共に悩む羽目になっていた。
帆船においては船尾に近い程、風向きの問題から悪臭に悩まされずに済む。
だから、個室も船尾に集中し、末席に近い者は船首近くで寝ることになる。
「畜生、騙された」
そう信長は何度目かの呟きをしていた。
ご感想等をお待ちしています。