第80章―1 対明帝国戦争の開始
第80章の始まりになります。
伊達政宗首相のみならず、日本や後金国やモンゴルの政府や軍上層部の面々の多くが悩むことになったが、対明帝国戦争は1615年7月を期して発動されることになった。
まず、日本軍が上海近辺に上陸して、南京を目指す。
その情報が北京に届き、南京救援の為の軍隊が動き出した頃合いを見計らって、山海関等の万里の長城を越えて、後金軍が北京を目指して急進し、北京占領を図る。
それによって、明帝国内が混乱するのを見計らって、モンゴル軍が四川省や雲南省に侵攻するというのが大戦略だった。
かつてであれば、こんな戦略、作戦は画餅も良いところであったが、今では無線通信等の通信手段が充実している。
流石に一糸乱れぬ連携した作戦を展開するのは困難だが、ある程度は連携して三国の侵攻作戦は遂行することが可能だ。
それに対して、明帝国の対応は有線通信どころか、伝令頼みなのだ。
勿論、烽火台等が明帝国内で全く整備されていない訳ではないが、詳細な情報を伝えようとなると、どうしても伝令しかない、ということになる。
こうした通信手段、速度の極めて大きな差は、明帝国軍が個々に戦うしかない状況を生みがちになり、明帝国に侵攻する側の、日本、後金国、モンゴル三国の劣勢な兵力を大きく補えると考えられていた。
その通信手段の差を日本等は活かせる一方で、三国の中でも日本は侵攻兵力を充実させるのに悪戦苦闘する羽目になった。
侵攻作戦を展開するとなると、補給等を担う後方部隊を充実させない訳には行かず、又、ある程度は独立行動が執れるように、戦時に合わせた師団編制を行う必要がある。
(既述だが、この世界の平時の日本陸軍は、基本的に各種の独立大隊が基盤であり、それを戦時になると編合等することで旅団や師団を編制して、大規模な戦争を遂行する)
そして、師団編制を行うとなると、予備役の兵等に動員を掛け、平時には紙の上だけになっているだけといえる部隊を動かせるように、再編制等を行う必要まで出て来る。
こうしたことから、1615年1月中に対明帝国戦争が決意されたにも関わらず、対明帝国戦争に本格的に突入するのは、約半年も経った1615年7月に入ってから、ということになったのだ。
その一方で、そんなに待てるか、という者が出るのも当然だった。
何しろ、後金国やモンゴル帝国では、実際に明帝国からの難民の流入が起きつつあり、更にその弊害が徐々に目に余るようになりつつあるのだ。
(この点、日本や琉球王国は、そういった難民の流入が相対的に少なくて済んでいた。
何だかんだ言っても、明帝国外に脱出するのに、海路よりも陸路を選んだ難民の方が多かったのだ)
そうしたことから、1615年7月を期して、日本軍が上海から南京を目指す戦争を発動すると聞いた後金国やモンゴル帝国では、1615年2月以降、明帝国内への掠奪行を活発に行うようになった。
(表向きは、事前の偵察行動の一環と、後金国やモンゴル帝国は強弁した)
伊達首相以下の日本政府は、後金国やモンゴル帝国の行動は、却って明帝国内において難民の発生を引き起こすことになり、逆効果を引き起こすのでは、と後金国やモンゴル帝国を諫めたのだが。
後金国やモンゴル帝国にしてみれば、既に難民の流入と言う事態が本格的に起きている以上、それを少しでも阻止する必要があるという名分を振りかざして、掠奪行を止めなかった。
実際に侵攻作戦を行うとなると、それなり以上の物資集積が事前に後金国やモンゴル帝国にとっては必須と言う事情がある。
そして、物資を集積するのに、敵に食むではないが、敵地の掠奪で少しでも賄おうとするのは、後金国やモンゴル帝国にとっては当然の行動だった。
この辺りの描写ですが、作者の私自身が、かなり悩んだ末です。
どうのこうの言っても、史実の明帝国の状況からすれば、スターリン体制下で起きたような飢餓輸出を明帝国がすれば、それこそ李自成の叛乱が既に起きていた気がしてなりません。
とはいえ、作中の流れからすれば、それは余りにやり過ぎの気がしました。
そういったことを考え合わせた末に、明帝国外に困窮した住民が流出しつつあるとはいえ、競い合うように住民が流出して、明帝国崩壊に至る状況ではない、と考えた次第です。
色々とツッコまれるでしょうが、緩く見て下さるように平にお願いします。
ご感想等をお待ちしています。




