第12章ー2
少し話を戻すが。
日本の東南アジアの拠点シンガポールの整備が、ようやく1551年にほぼ完全に完了したことから、マラッカ海峡以東の南シナ海について、日本の人々が我らの海と完全に呼べそうになった頃、日本政府としては、更なるインド洋方面への進出を検討するようになっていた。
(なお、1548年にポルトガル領マラッカを日本とジョホール王国が共同して征服した後、ポルトガルはマラッカ奪還のために何度か艦隊をマラッカに送ったが、日本と(ジョホール王国の後身の)マラッカ王国の連合艦隊の前に、その度にポルトガルは艦隊を殲滅されており、1551年が最後の試みになっている)
そして、東南アジア方面から入ってくるさまざまな情報を検討した末、日本政府は、オスマン帝国と友好関係を築き、ポルトガル勢力をインド洋から完全に排除しようと考えるようになっていた。
だが。
いきなり日本からオスマン帝国に送る使節団長をどうするか、という点でつまづくことになった。
かつて、シャム王国やジョホール王国については、ある意味、辻政信(当時は大佐)将軍が使節団長的な立場として赴いて、日本との同盟締結を果たしたが。
相手がオスマン帝国となると。
この当時のオスマン帝国は、それこそ昇竜のような勢いにあり、スペインと世界の覇権を競うような超大国と言える存在である。
ここに使節団を送るとなると、それなりに格、立場のある人間を日本としても送らざるを得ない。
だが、この当時の日本の貴族、公家にしてみれば、明でさえ遥かな異国である。
それなのに、オスマン帝国まで赴くとなると。
日本の貴族、公家は、余りの遠さに最初から尻込みしてしまった。
結局、散々に揉めた末に、皇軍の岩畔豪雄将軍が使節団長として手を挙げ、使節団長としていわゆる箔を付けるため、前陸軍大臣という肩書を付けて、従一位の官位で使節団長に就任した。
そして、岩畔使節団長の下、使節団を編成するということになったのだが。
上記のような事情から、貴族、公家は中々、オスマン帝国に行くのを嫌がった末、結局、外務省次官を務めている清華家の久我晴通が、押し付け合いの末に、使節団次席としてオスマン帝国に赴くことになった。
(久我晴通としては、あくまでも拒否しては、実の甥(姉の子)になる足利義輝に対する処遇が悪化することを懸念した末に副使節団長になった)
更に、貴族、公家の若人も見聞を広めるという理由で加わった。
その一方で、武士、かつての大名や国人衆の中には、むしろ積極的にオスマン帝国の使節団に加わろう、とする動きがあった。
こちらは後々、使節団の経験を生かして、出世なり、利益なりを得ようと考えたのだ。
鍋島清房、村上通康、宇喜多直家等といった面々で、彼らも使節団に参加が認められた。
また、当然のことながら、商人階級で、この際、自分達が参加したいという希望も多かった。
(中には、当主や跡取りの代わりに番頭らを参加させたい、という商人も多かった。
例えば、博多の島井家等は、そう言った形で参加した)
今井宗久や小西隆佐らがそう言った面々だった。
彼らは、インド洋の商業の現場をこの際に見聞して自らの商売をさらに拡大しよう、と考えたのだ。
こうしたことから、オスマン帝国への使節団は大規模なものになった。
岩畔使節団長が、
「これは天文の岩倉使節団だな」
と陰で言った程の規模だった。
だが、その一方で、実務を取り扱う随員、例えば、通訳等が極めて手薄になる事態が起きた。
そのために、それこそ立っている者は親でも使え、と探し回られる羽目になり。
とうとう10代半ばの女性の上里美子までが、通訳としてオスマンに赴く羽目になってしまったのである。
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