第77章―9
そんな裏、背景があった末に、労農党は衆議院の単独過半数を得たが。
伊達政宗を始めとする労農党の主流派は、更に追い打ちを右派勢力、具体的には保守党と中国保守党、及びそれに味方する小党や無所属議員に掛けるのを躊躇わなかった。
「水に落ちた犬は徹底的に叩け」
ではないが、この右派勢力の敗北から、右派勢力の大結集、具体的には「保守合同」と言う悪夢が再度、考えられて、実行されるのではないか、と伊達政宗以下の労農党の主流派は考えたのだ。
そうしたことから、労農党の主流派から標的にされたのが、中国保守党だった。
「保守合同」失敗の余波から、中国保守党の党首は吉川広家が務め続けてはいたが、その党内基盤、支持勢力は完全に落ち目になっていた。
そして、1610年の衆議院議員総選挙において、中国保守党は20議席を割る惨敗と言ってよい結果を呈していたのだ。
この結果について、党首の吉川広家に対して、中国保守党内外から猛烈な批判が巻き起こるのは当然としか言いようが無かった。
「この敗北は、吉川広家党首にある」
「保守合同に賛同したことから、中国保守党の独自性が失われ、支持者離れを引き起こしたのだ」
そんな党内外からの批判を浴びては。
「此度の衆議院議員総選挙の大敗の責任を取って、党首を辞任する」
と吉川広家は言わざるを得なかった。
そして、次の中国保守党の党首になったのは、毛利輝元だった。
本来的には、おかしな党人事と言わざるを得なかった。
何故ならば、毛利輝元は中国保守党内では長老議員と言っても過言では無く、吉川広家より10歳近くも年長だったからだ。
(毛利輝元は1553年生まれ、吉川広家は1561年生まれです)
通常ならば、吉川広家の後任の党首は、吉川広家より若いのが当然である。
だが、この衆議院議員総選挙の敗北に伴う中国保守党内の混乱を鎮めるとなると、吉川広家に従前から批判的な立場を執っていた長老議員である毛利輝元を据えるのが最善だ、と党内の多くが考えたことから、毛利輝元が中国保守党の党首になった。
(尚、吉川広家が中国保守党の党首になったのは、中国保守党の創設者である小早川道平の推挙があったという背景があった。
1606年の衆議院議員総選挙に際して、小早川道平は還暦過ぎという(この世界では)高齢議員と呼ばれる立場になっていたことから、息子の小早川正平に地盤を譲って引退すると共に、中国保守党の次期党首として吉川広家を指名して、中国保守党内の多くも、その指名を支持したのだ。
だが、「保守合同」のゴタゴタから、小早川道平は余り吉川広家を支持しなくなっていた。
更に上記の事情が相まって、吉川広家の辞任、毛利輝元の党首就任という事態が起きた)
しかし、毛利輝元が中国保守党の党首になったとはいえ、次の1618年の衆議院議員総選挙では毛利輝元は65歳という高齢になり、それこそ(この世界では)小早川道平と同様に政界引退を完全に考える年齢である。
とはいえ、輝元の長男の秀就は1595年生まれであり、そもそも衆議院議員選挙の候補者に成れないという事情があった。
(この世界でも、衆議院議員選挙で候補者になるには、満25歳以上になる必要があります)
こうした毛利輝元の裏事情、家庭事情も、伊達政宗以下の労農党執行部にしてみれば、中国保守党に対する政治工作を行う絶好の理由と言えた。
「保守合同」のゴタゴタから、右派勢力の大同団結が頓挫したとはいえ、「保守合同」の芽が完全に潰れたとは言い難い。
それを完全に潰すとなると、中国保守党と保守党の仲を更に割く必要がある。
そのためならば、中国保守党と労農党は連立を組むべきだ。
政宗らは怜悧にそう考えた。
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