第77章―7
そういったことから、女性の労働者の地位向上も急な現実が、(この世界の)日本ではあったが。
そうはいっても、中々染みついた日本の多くの国民の意識を変えるのは難しい。
例えば、双方の親元を離れていて、夫婦で幼い子どもを育てているときに、子どもが熱を出したり、お腹を下したりすれば、まずは母親が休むのが当然という意識は1610年代になっても残っていた。
母親がどうにも休めない場合に、父親が休むのが当然と考える人が、まだまだ多かったのだ。
他にも、例えば、育児休暇にしても、法律上は父母双方が取れるようになっていたが、男性の育休取得率は極めて低く、仮にとっても1週間とかいうのがザラだった。
それに対して、女性の育児休暇となると半年以上が当たり前だった、
これでは、男性の育児休暇は、単なる特別休暇と何処が違うのだ、と批判されるのも当然だったのだ。
こういった現状に、多くの女性、特に若年層に至る程、不満を内心で溜める現実があったのだ。
男性と同様に女性も働いている以上、そういった意識を変えて欲しい、と考える女性が増えていた。
更に言えば、そういった女性の多くが、労働組合に加入して、自らの主張を周囲に訴えている現実があった。
こうした背景事情が、伊達政宗が、
「労農党を壊そう」
をキャッチフレーズにして、女性の衆議院議員候補者を公募した際に、少しでも希望を抱いて、それなりの人材が集う事態を引き起こすことになったのだ。
後、もう一つ、労農党というか、伊達政宗に有利な点があった。
それは広橋愛の存在だった。
広橋愛は、言うまでもなく伊達政宗の第一秘書を、1610年以降は務める存在である。
(そうしたことから、1615年現在では、広橋愛は伊達首相の公設の第一秘書になっている)
そして、彼女はシングルマザーとして、働いている女性でもあった。
1601年に徳川秀忠と愛人との間に産まれた正之は、愛人が難産で亡くなったこともあり、色々と徳川家等と話し合いがもたれた末に、乳児の頃に広橋愛が養子に迎えたのだ。
そして、正之は愛を養母として育った。
事実上は上里家の一員として、広橋愛と広橋正之は暮らしていたことから、シングルマザーの中でも愛はかなり特殊な立場と言っても過言では無かったが、そうは言っても、シングルマザーで働く女性の一人であるのは間違いない。
更に広橋愛のことは、義妹にして実の娘になる鷹司(上里)美子によっても、日本国内どころか、日本国外にまでそれなり以上に知られた存在でもあった。
だから、労農党が女性の衆議院議員候補者を募集すると、広橋愛の存在から、労農党は従前の経緯(大日本帝国全労連が背景にある)もあるし、働く女性に理解がある党首がいるから、これは本気で女性を政治で活用しようとしているのでは、と世間から好意的にみられるということが起きた。
そうしたことが、女性の衆議院議員候補者を(相対的だったが)容易に集めることにつながったのだ。
とはいえ、広橋愛だが、その経歴や容貌から、肝心の集まった女性の衆議院議員候補者からでさえ、いわゆる人寄せパンダ的存在と見られることが多かったが。
広橋愛と様々な話を交わすにつれて、多くの衆議院議員候補者でさえ背筋を伸ばす事態が起きた。
何故かと言えば、広橋愛の政治的見識は、それこそ伊達政宗と対等に渡り合えるモノだったからだ。
(本来的には逆だが、実の娘の鷹司(上里)美子に、広橋愛の政治家としての才能は匹敵すると言えた)
だから、広橋愛と会って話をした面々程、軽い気持ちでは候補者には成れない、と背筋を伸ばし、自らを磨こうとする事態が多発した。
こうした背景が候補者の質を伸ばす事態が起きたのだ。
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