第77章―3
そして、日本の植民地の多くが自治領化し、日本が連邦国家に移行した以降というか、1605年以降になると、女性の社会進出は完全に止められないといっても過言では無い状況になっていた。
だが、そうした状況になっても、日本の政治状況は男性の政治家が圧倒的多数を占めるままだった。
幾ら1574年の第一回総選挙の頃から、女性の選挙権、被選挙権が認められていたとはいえ、政治は男社会という意識が、それなりに日本では強かったからだ。
更に言えば、織田(三条)美子や島津亀寿といった、ある意味では強すぎる女性が、既に日本本国の政界で目立っていたのも、却って女性政治家の拡大を阻害した。
言葉は悪いが、二人共に夫と伍するどころか、下手をすると夫を尻に敷くタイプの烈女といっても過言では無いのだ。
更に言えば、二人の夫も弱い存在とは、とても言えない存在で、共に強い存在であるのにだ。
(織田(三条)美子の夫は、(この世界の)初代首相の織田信長だし、島津亀寿にしても、その夫は島津忠恒なのだ。
その二人の夫でさえ、どうにも御せない妻が、国政で名を馳せていては。
衆議院議員を女性が目指そうとしては、それだけの女性で無ければ、衆議院議員になれない、という暗黙の意識が、日本本国内の有権者の間で漂うのも、仕方のない事態としか、言いようが無かった)
だから、逆説的な話になるが、若い女性が私は政治家を目指したいというと、いや、それは止めておいた方が、と周囲が押し止めるのが多発する事態を引き起こしてしまったのだ。
更には、当の女性自身にも、織田(三条)美子や島津亀寿のような女性でないと、政治家を目指せないのはどうなのか、と腰が引けてしまう事態を引き起こしてしまった。
周囲にしてみれば、確かに女性でも政治家に成れるけど、その結果として、そんなに強い女性にならなくてもよいのでは、という事態が起きることになったのだ。
又、政治家を目指す女性自身も政治家、特に衆議院議員を目指すとなると、そこまで強い女性にならないといけない、とハードルを自分から上げてしまい、却って女性政治家が増えない事態が、日本本国内では起きてしまったのだ。
そういった背景から、日本本国内では、女性政治家、特に女性の衆議院議員が中々増えないという事態が引き起こされていた。
皮肉なことに、貴族院の方が女性議員が比率的には多い、という事態さえ引き起こされていた。
その背景だが、宮中女官を務めるとなると、官位を与えられるのが当然と言う事情があるからだ。
尚侍となると、従三位が最低の官位である。
典侍でも、従四位下が最低の官位になる。
内侍(掌侍)にしても、少なくとも従五位下に叙せられるのだ。
(尚、勤続年数や功績等によって、宮中女官が官位を昇進することは珍しくない。
実際に(この世界で)尚侍を務めた織田(三条)美子に至っては、1615年現在では正二位にまで昇進している現実があったのだ。
典侍にしても、二位、三位に到達することが珍しくないのが、(史実でもそうだったが)現実だった)
だから、三位以上は当然に貴族院議員に成る以上、三位以上を得た尚侍や典侍は、当然に貴族院議員に成る現実があった。
又、四位や五位の官位を得た者も、互選によって、貴族院議員に成ることが出来、それを利用して、宮中女官でありながら、貴族院議員に成る女性も珍しく無かった)
そういった背景事情から、貴族院の方が女性議員の比率が高い、と言う事態が、(この世界の)日本では引き起こされる事態になっていた。
伊達政宗は、こういった事情から、労農党内の衆議院議員の女性比率を高めようと、様々な策を講じようとする事態が引き起こされたのだ。
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