第77章―2
とはいえ、この候補者の女性比率の増大は、幾ら労農党の党首の伊達政宗が獅子吼し、それに主流派の宇喜多秀家幹事長らも賛同したとはいえ、本当に一筋縄ではいかなかった。
何だかんだ言っても、(この世界の)日本はまだまだ男性を中心とする社会であり、女性の衆議院議員候補者を増やそうとしても、そうは言っても、と批判する声が労農党の内部でさえも高いという現実があったのだ。
だが、政宗は根気よく党内の説得に努めた。
更に日本社会の現実が、それを後押ししていた。
それこそ、かつて(この世界の)大日本帝国憲法が施行されだした頃までは、夫が働いて、それで家計が苦しければ妻が内職等で家計を助けるのが当たり前だった。
だが、北米独立戦争等が、そういった現実を突き崩していった。
北米独立戦争が行われた結果、徐々に日本本国内では、女性が外で働くのが当たり前になっていった。
(実際、数年に亘る国家総力戦が展開されては、女性と言えども外で働かせないと、戦争を遂行できない現実が起きて当然だった)
そして、一度、女性が外に出て働くのが当たり前になれば。
戦争が終わったからと言って、そういった女性が全て退職して家庭に戻る訳が無かった。
それこそ経営者、資本家側からすれば、数年に亘って雇用され、熟練した労働者になった女性を解雇して、未熟練労働者を新規に雇うのは躊躇われることだった。
又、当の女性労働者にしても、一度、外で働いて、それなり以上に稼げた以上、その稼ぎを容易に手放す筈が無かったのだ。
更に、そういった現実を見て若い女性は、積極的に外で働いて自分も稼ごうとし出した。
そうは言っても、1600年頃までは、いわゆる寿退職、出産退職が日本本国内で珍しく無かった。
実際、その頃までは日本社会の暗黙の了解として、既婚男性はそれなりに扶養手当等の優遇措置を受けることで、妻子を養って当然という意識が強かったからだ。
更に、日本の技術的優位は、そういった余裕を日本社会に与えていた。
だが、1600年頃になると、北米共和国やローマ帝国の様々な技術的水準は、そう日本に劣らなくなり、日本社会にそういった余裕を徐々に失わせることになった。
又、日本社会に更に大きな影響を与えたのが、植民地問題だった。
日本の植民地は、開発当初は日本本国に対して安価に資源を単に提供する存在だった、といっても過言では無かったが。
この頃になると、日本本国の人件費の高騰を嫌った一部の経営者、資本家の行動もあって、日本の一部の植民地は、徐々に工業化等まで果たすようになっていたのだ。
そうしたことが、徐々に扶養手当等の削減が、日本本国内で行われる事態を引き起こした。
結婚したからといって、又、出産したからといって、必ずしも退職せずに働き続ける女性がそれなり以上にいるのに、働かない女性、専業主婦の為に何で会社が手当てを払う必要があるのだ、という声が少しずつ広まって、それを口実に経営者や資本家は、扶養手当等を削減しだしたのだ。
そうしたことが、更に既婚で子どものいる女性が、外で積極的に働こうとする事態を引き起こした。
扶養手当等が削られる以上、働いた方が有利だ、という考えが広まることになったのだ。
(後、全くの余談に近いが。
この世界の日本では、皮肉なことに右派、保守党系は扶養手当等の維持を求め、左派、労農党系が扶養手当等の削減に賛同する事態を引き起こした。
扶養手当を最悪の場合は削ってでも、労働者にきちんと報いろ、と左派、労農党系は訴えたが、右派、保守党系はそんなことをしては、これまでの家庭が崩壊すると批判したからだ。
だが、日本社会の流れは、女性の社会進出を進めざるを得なかった)
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