第77章―1 1615年の日本国内の主に政治の現状
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そんなことを鷹司(上里)美子が考えながら、尚侍の職務を果たしていた1615年春、日本の首相に就任していたのは、伊達政宗だった。
1614年夏に行われた衆議院議員総選挙において、労農党は勝利を収めることに成功、更に中国保守党を保守党から寝返らせることにも成功して、労農党の党首である伊達政宗は首相に就任していた。
とはいえ、この総選挙の勝利は薄氷を踏むような代物でもあった。
というか、労農党内からも批判を受けながら、政宗は大博打を打ったと言っても過言では無かった。
1610年の衆議院議員総選挙における労農党の敗北から、保守党と中国保守党を完全合同させて「保守合同」を図ろうとする動きは、日本の政界に激震を奔らせる出来事だった。
特に「保守合同」は、労農党を始めとする左派系勢力にしてみれば、もし、完全に成功した暁には、日本の政治が完全に右派系勢力に握られるのでは、という危機感を煽られる動きとして受け止められた。
最終的には「保守合同」は失敗に終わったとはいえ、この動きが完全に消えはしなかった。
こうした背景から、労農党内部でも支持者拡大、議席増を図る対抗策が急務となった。
そして、親労農党系の無所属議員や友好関係のある小党の取り込みが図られた一方で、支持者拡大のためには、大きな改革を行う必要があると党首の政宗自らが訴えた。
「これまでの労農党を壊そう」
最後には、政宗自らが訴えた。
さて、これまでの労農党を壊そう、とはどういうことか、というと。
実際には保守党他の全ての政党が大同小異だったが、どうのこうの言っても、労農党の地方議員、要するに県議会や市町村議会でも女性議員は少数、2割にも満たなかった。
これが衆議院議員になると、更に深刻で1割にも程遠い現実があった。
こうした状況を変えよう、と政宗は考えた。
「次の衆議院議員総選挙では、新規の候補者は女性を過半数にしよう」
そう政宗は訴えたのだ。
この政宗の主張は、労農党内に激震を奔らせた。
どうやって新規の候補者を募集、発掘するか、そういった点だけでも問題が起きるのは必至だった。
更に言えば、どうのこうの言っても、前回の衆議院議員総選挙で落選して、次期の総選挙での復活を目指している者等もいる。
そういった者の取り扱いがどうなるのか、党内の利害調整が当然に必要になる。
その一方で、労農党にとって有利なことがあった。
どうのこうの言っても、労農党に所属する衆議院議員は、何らかの組織が背景にあることが多く、保守党系の衆議院議員が、組織ではなく個人的に培った後援会を背景にして当選していることが多いのと対照的な状況だったのだ。
(これは保守党系の衆議院議員に、いわゆる地元の名家出身者が多かったという事情もある。
その典型例が、島津義久から島津亀寿へと、事実上は島津家によって薩摩の選挙区においては衆議院議員の世襲が行われたことだった。
更に島津派の領袖の地位までも、父の島津義久から娘の島津亀寿が引き継ぐ事態が起きている。
他にも上杉家や北条家、今川家に尼子家等、保守党に所属する衆議院議員は名家出身が多数で、選挙に際しては、そう言った背景から培われた個人後援会頼みが当たり前だった。
そうしたことが、労農党を始めとする面々から、保守党の衆議院議員は名家出身者ばかりで、個人後援会の集まりだ、と揶揄される現実を引き起こしていたのだ)
そんな労農党だからこそ、衆議院議員候補者として女性を選ぼう、と党首の伊達政宗が獅子吼すれば、親労農党の組織(その中で最大の勢力を誇るのが大日本帝国全労連)から、女性の衆議院議員候補者が相対的に保守党に比して、容易に推薦されるという現実があった。
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