第74章―20
「まずは女性の議員候補者を募集し、又、探し出すことだ。そして、家庭を築いている女性ならば、尚のこと、自分としては候補者としては望ましいと考える」
「何故に」
「男女を問わずに有能な人物を集めようとしているのが目に見えるし、それに女性が家庭で、男性が仕事でという固定観念を壊せるからだ」
「そう言われれば、そうかもしれませんが」
伊達政宗と宇喜多秀家は、今後のことを見据えて話が深まった。
政宗の脳裏に改めて浮かぶことがあった。
かつて、木下小一郎が労農党の党首を務めていた頃、一時ではあったが、労農党は友党、同じ左派系政党の面々と手を組んでのことではあったが、国会議員の過半数を制したことがあったのだ。
勿論、労農党単独で過半数を得たモノではない以上は過大評価を慎まねばならないし、過去の話であるのは間違いないが、かつての栄光を再現しようと試みて、何処が悪いだろうか。
そして、その方策だが。
有能な議員に成れそうな人材を自ら発掘、育成していくのが最善のやり方だろう。
迂遠なやり方のように見えるが、それこそ労農党の遥かな起こりを思い起こせば、最善だろう。
労農党の遥かな起こりは何処か?
人によって違うかもしれないが、自分の考える限りは、義理の伯父が大坂全労連を結成したときだ。
大坂全労連が結成されて、それを基として大日本帝国全労連が結成され、更には労農党が結成されていくことになったのだ。
そして、大坂全労連結成の際に、義理の伯父が考えたのが、大坂全労連を単なる労働者の集まりにしてはならない、ということだった。
単なる労働者の集まりにせず、それこそ地域に根差して、地域住民全体の為に様々な(市民、住民)運動に励む組織にしよう。
そう考えて大坂全労連は造られ、その考えは大日本帝国全労連に、労農党へと継承された。
それによって、労農党は党名からして当然のことだが、労働者のみならず、自小作の中小農民まで組織化して取り込んで、全国政党になることが出来たのだ。
更に言えば、労農党に反対する右派、保守派の面々が対抗して集ったことから、保守党や中国保守党ができていったのは間違いないことだ。
そういった点でも、義理の伯父の織田信長の功績は大きいと言える。
それによって、それこそ世界の模範になれる国会政治が日本で生まれたのだ。
だが、伯父にしても時代の限界は免れなかった。
大坂全労連が出来た当時は、それこそ1日12時間労働が横行していて、週70時間働く労働者は稀どころでは無かった。
そして、家制度もあって、結婚したら家事をするのは専ら妻、女性が当たり前だった。
週70時間も働いて家事をする等、不可能もよいところだったからだ。
(その代わり、妻が専業主婦でやっていけるように、扶養に伴う税金優遇や手当が行われた)
だが、伯父やその仲間が懸命に頑張った結果、労働時間は徐々に短縮していき、終には、
「1日8時間働き、8時間は睡眠等に使い、8時間はやりたいことをしたい」
というスローガンが掲げられて、週48時間労働制が徐々に現実化していった。
最も北米独立戦争が勃発した結果、国民総生産体制確立のために週48時間労働制は足踏みすることになったが、その一方で、女性は徴兵されて男性が不足するようになった生産現場等を守るために、積極的に外で働くようにならざるを得なかった。
そんなこんなが相まって、女性も外で働くのがおかしくない社会が、徐々にできたが。
そうはいっても、家制度の名残等から、北米独立戦争が終結した後、今に至るまで男性中心の社会が根強く(この世界の)日本では残っている。
これを変えて男女平等社会にして、労農党を強化しよう。
そう政宗は考えていた。
ご感想等をお待ちしています。




