第73章―17
だが、そこまでの事態が周囲に波及して起こるのには、それなりどころではない時間が掛かるのは当然のことだった。
ヌルハチとリンダン・フトゥクト・ハーンの会談自体は、後金とチャハル部の講和、表向きは停戦に伴う友好関係再確立が行われるだけになったからだ。
だから、その裏、それこそ世界の仏教徒とイスラム教徒が手を組んで、キリスト教徒の侵出に対抗する、更に下手に火花が飛べば、宗教絡みの世界大戦が勃発する事態に、世界の多くの人が気付かない事態が起きるのも当然だった。
(キリスト教徒は十字軍を唱え、それに対して、イスラム教徒はジハード(聖戦)を唱え、イスラム教徒には仏教徒が加担する。
更には対キリスト教戦争であることから、味方の敵は敵の観点等から、この世界では仏教徒と友好関係にあり、対キリスト教徒の関係でイスラム教徒と共闘したヒンドゥー教徒までもが、仏教徒やイスラム教徒に加担する悪夢の事態が起きるのではないか。
とまで、上里清を始めとする目が見える人には見える事態が起きたが、そんなことは、この世界の殆どの人にしてみれば、陰謀論にも程がある事態だったのだ)
だが、それは余りにも先走った話であり、1608年夏時点で言えば、後金とチャハル部の講和が成って、後金にしてみれば、完全に対明戦争に本格的に突入できる状況になったことの方が重要であり、この時の東アジアを中心とする世界の殆どの人にとっても同様だった。
この頃の後金と明の国境は、ほぼ遼河によって隔てられていた、といっても過言では無く、遼河左岸が後金領であり、右岸が明領という状況にほぼあった。
そして、明軍の方が数は多いとはいえ、兵器の質において劣っていたこと、又、チャハル部を中心とするモンゴル諸部が、後金及び明に対して、それぞれ非好意的中立と言って良い立場を取っていたことから、後金と明は微妙な緊張関係を保っていたのだが、後金とチャハル部の講和は、その緊張関係を完全に崩す事態を引き起こした。
「(いわゆる)遼西回廊へ侵攻し、万里の長城以北から明の勢力を追い出す」
ヌルハチはそう獅子吼して、1608年の初秋、遼河を渡って、明への本格的な侵攻を開始した。
これに明軍は懸命に抗戦したが、それこそ兵器の圧倒的な質の差(既述だが、後金軍の戦車による攻撃や爆撃機の空爆に対して、明軍は火縄銃で抗戦する惨状)から、1608年中に万里の長城以北から明軍は完全に姿を消す事態が起きた。
そして、敗北した明軍の将軍達は何としても自分や家族の命を守ろうと、懸命に時の皇帝である万暦帝の周囲の佞臣(その殆どが宦官)に贈賄することとなり、それが功を奏して、命は助かることになったが、それとて、ヌルハチの視点からすれば有難い事態だった。
何故なら、そのように信賞必罰が通じない将帥ばかりでは、後金軍に明軍が抗しえないのは自明の理と言って良かったからである。
「我が国内ではケシの栽培は、儂自らの許可が無い限り、断じて許さぬ。栽培した者は死罪にする。尚、ケシの栽培によって生産された阿片及びその副産物は(後金)国の専売とし、専売許可を受けた者以外がそういったモノを製造や売却をした場合、その者は死罪にする」
その一方で、この当時の明帝国内に蔓延っていたケシの栽培や阿片(及びそれに伴うアヘン系麻薬(モルヒネ等))製造や売買については、改めてそのような法令をヌルハチは出して、後金国の官吏に対して、その処分を徹底させた。
本来ならば、ヌルハチはケシ栽培を全面禁止したかったが、転作指導には様々な手間や時間等が掛かることから、日本に相談した上で、そのような当面の措置をヌルハチは採らざるを得なかった。
実際問題として、アフガニスタンやコロンビア等が現実に困っていますが、麻薬根絶の為に農家に転作指導をしても、農家にしてみれば収入激減という事態が発生するので、そう簡単にケシやコカを栽培するな、と言っても農家が従わない事態が起きるのです。
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