第10章ー8
その一方で、島田豊作中佐は、対馬防衛の功績から叙勲されることとなった。
また、田中頼三提督らも、対馬の海戦で多大な戦果を挙げたことから、叙勲されることになった。
(なお、深夜に日本海軍の襲撃は行われたため、もっとも間近で日本海軍の活動を見せられた朝鮮軍の捕虜の間でさえ、正確な日本海軍の艦船の姿は捉えられていなかった。
もっとも、「神通」の探照灯照射により、朝鮮軍の将兵の多くの目がくらまされていたのもある。
こうしたことから、朝鮮軍の捕虜の間では、夜間に日本軍は魔物を操って、我々を攻撃してきた、という噂が流布されることになり、更に日本側も、いわゆる皇軍の正確な情報隠蔽に努めることへの一環として、その噂を否定しなかったことから、かなり後にはなるが、帰国した朝鮮軍の捕虜から、朝鮮国内の民衆にまで、日本軍の魔物伝説が広まることになる)
こうして多大な戦果を日本軍が挙げた一方、敗北した朝鮮軍は悲惨だった。
今上天皇陛下の意向から、一応、日朝間の講和の打診が行われることになり、その使者の一員として、捕虜となった朝鮮軍の将帥達も連れて行かれたが。
結果的に朝鮮王宮に、日本から虜囚の身となった後で帰国した将帥は、全て敗戦の責を取らされて、凌遅刑に処せられた。
また、対馬侵攻作戦に従事した全ての朝鮮軍の将帥の一族にも累が及び、男子は毒により死刑となり、女子は婢に身分を落とされたという。
何故かと言うと。
日本の使節により、対馬侵攻作戦における朝鮮軍の惨敗振りが朝鮮王宮に対して伝えられ、更に朝鮮の世間にまで、朝鮮軍の敗北の内容が広まってしまったからである。
(勿論、日本側が朝鮮の世間にまで、わざと広めたのだが)
朝鮮の王宮としては、この屈辱的な大敗北は、10倍の兵力差からいっても、現場の将帥が無能極まりなかったためであり、朝鮮の王宮には一切責任はない、と責任転嫁をすることにして、日本から送還された将帥やその一族は、そのために処刑されたという次第だった。
更に怒った朝鮮王宮は、日本の使節を全員殺そうとまでしたために、日本の使節団は這う這うの体で朝鮮から脱出する羽目になった。
ともかく、使節の復命を受けた日本側としては、幾ら今上天皇陛下の意向があるとはいえ、これでは当面の間は、日朝間の講和は到底無理な話だ、と判断せざるを得なかった。
(勿論、これには裏がある。
皇軍関係者としては、朝鮮に加え、後述するが明とも自由貿易による開国を迫ろうとしていた。
だが、朝鮮も明も管理貿易、鎖国体制を崩そうとは中々しなかった。
更に、今上天皇陛下を始めとする日本国内の平和主義がある。
だから、朝鮮や明から日本に戦争を仕掛けてきた、そして、日本の講和申し入れに、朝鮮や明はどうしても応じない、ということで、防衛戦争を行うことで、平和主義者を沈黙させる。
更に戦争によって、朝鮮や明を疲弊させて、疲れ果てた朝鮮や明と講和条約を結ぶことで、両国に開国をさせようとしていたのだ。
だから、朝鮮政府に対して挑発的な使節を送る等、裏で戦争を煽ったのである)
そして、朝鮮王宮は、この敗北を受けて、明に対して応援を求めた。
とはいえ、明も倭寇には苦慮している有様であり、朝鮮に対する具体的な支援は出来なかった。
(朝鮮側に必要だったのは海軍だったが、明海軍は弱体であり、天津や南京まで倭寇の脅威が及ぶような惨状で本土防衛に汲々とする中、明海軍が朝鮮に救援に赴ける訳が無かったのだ)
更にこのことが、日本にまで伝わったことから、日本と朝鮮、明の三国は戦争に突入することになった。
だが、この戦争は非対称戦争とならざるを得ず、朝鮮、明は苦戦を強いられることになった。
ご感想等をお待ちしています。