第10章ー1 1552年頃の日朝、日明関係
新章の始まりになります。
まず、(この世界の)1552年頃の日朝関係であるが、関係が冷え込んでいるどころではなかった。
はっきり言って、日朝関係は、完全に戦争状態にあり、お互いに正式に軍の大動員こそされていないものの、非正規戦闘を繰り広げている状況にあると言っても良かった。
何故にこのような状況に陥っていたか、というと。
「(いわゆる1510年に起きた)三浦の乱について、朝鮮側からの日本への全面的な謝罪と賠償を求めます。それから、朝鮮の港の内最低3港、その内2つは仁川、釜山について、日本の商船に対する完全開港を日本は求めます。これが、我々が譲れる最低限の条件です」
「そんな無茶苦茶な。朝鮮側は、その条件を完全拒否します。特に三浦の乱については、既に解決済みと聞いております」
「その件について、天皇の勅許はありません、従って、未だに未解決とこちらは考えています。そこまで言われるのなら、いわゆる倭寇の取り締まりを、日本は拒絶します」
「そんな論理は通りません。倭寇は犯罪者です。取り締まってもらわねば困ります」
いわゆる「天文維新」以降、日本の外交担当者と朝鮮の外交担当者は、激論を交わすことになっていた。
(なお、このとばっちりから、皇軍の来訪以前、対馬の宗氏が、室町幕府の牙符を独自に入手して勝手に行っていた朝鮮政府への偽政府使節派遣の事実が、完全に周囲にバレてしまい、宗氏は対馬から追われて没落することになる。
また、足利氏の追放の口実にも、この牙符の一件は使われることになる)
(少し補足説明をすると。
この頃、日朝間では牙符という、日明間の勘合符と似たような制度があった、
この牙符には朝廷は関与せず、室町幕府が行っていたものだった。
この件を皇軍関係者は問題視した。
朝廷の外交権を奪い、独自外交をしていると捉えたのである。
宗氏に至っては、勝手にやっており、更に重罪視されたのだ)
「単に自由貿易を求めるものを殺戮するとは、そちらこそ対応を誤っておられる。倭寇、と貴方達は彼らを呼んで、非難しておられるが、我々からすれば、多くが自由に交易したいという民に他なりません。何故に取り締まれと言われるのか。その要求は、日本に対する内政干渉、侮辱に他なりません」
「それなら、朝鮮は日本と戦争をせざるを得なくなります」
「分かりました。ここまで日本は平身低頭して、平和を望んでいたのに。朝鮮側から戦争を積極的に望まれる以上、日本は受けて立ちます」
「何を言われる。散々挑発するような言動をして、積極的に宣戦を布告するようなことをしたのは、日本ではないのですか」
そんな感じで、朝鮮は日本に対する外交交渉を打ち切り、対馬に対する外征を行った。
これは1546年の話で、朝鮮軍は陸兵約2万人、軍船約250艘から成る軍を催していた。
この時、朝鮮側にとって大誤算だったのは、朝鮮側としては約130年余り前のいわゆる「応永の外寇」と同様に、対馬に対する襲撃を行えば、日本は居丈高な外交態度をあらためて、自分、朝鮮に対して謝罪してくる、という甘い見通しがあったことだった。
更にこのような外交態度を朝鮮側が執ったのには、それなりの国内事情もある。
実はこの頃、朝鮮国内は微妙に乱れていた。
1544年に時の朝鮮国王、中宗が崩御、世子の仁宗が朝鮮国王に直ちに即位したが。
仁宗は、中宗が崩御した時の王后、文定王后の遠縁関係にあったものの実子ではなく、文定王后としては実子になる(仁宗にすれば異母弟になる)明宗の即位を熱望していた。
そして、李朝の正史によれば病死で、多くの稗史によれば文定王后による毒殺で、仁宗は1年も経たない在位期間で崩御し、明宗が即位することとなった。
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