第70章―15
この際に横道に入りますが、ここで描かないと描く機会が無くなりそうなので、クリミア・ハン国とローマ帝国の戦争の流れを2話程、描くことにしました。
少なからず話がズレるが、この際にローマ帝国とクリミア・ハン国との戦争について、これまでの流れと現状、更に今後について女帝エウドキヤを始めとするローマ帝国政府上層部やその周辺諸国、オスマン帝国政府の対応等について、ここで述べておくことにする。
ローマ帝国とクリミア・ハン国が交戦状態に突入したと言えるのは、1595年11月にローマ帝国対ポーランド=リトアニア共和国との戦争がキエフ等をローマ帝国軍が占領し、キエフ大公への戴冠式を女帝エウドキヤが挙行する等、ローマ帝国の勝利でほぼ終結する目途が立った後からだった。
何故なら、この頃からローマ帝国とクリミア・ハン国の国境が直に接することになり、それこそこれまでの様々な因縁から紛争が半ば必然的に起きて、戦争にまで突入することになったのだ。
クリミア・ハン国は、これまでモスクワ大公国やポーランド=リトアニア共和国の領内に対して、しばしば掠奪行為を働き、それによって財貨を奪い、又、捕虜にした住民を奴隷として連れ出してオスマン帝国等に売り飛ばして利益を得ていた。
そして、掠奪行為を止めたり、又、連れ出した住民を売却せずに帰還させたりする代償として、貢納をモスクワ大公国やポーランド=リトアニア共和国に求めており、それにモスクワ大公国やポーランド=リトアニア共和国も時として応じて来たという歴史的経緯があった。
こういった流れを、ウクライナをローマ帝国が征服した後も、クリミア・ハン国は続けようとしたのだが、ローマ帝国はそれを拒み、打ち破ろうと試みることになったのだ。
とはいえ、その一方でこの対クリミア・ハン国との戦争はローマ帝国にしてみれば、自らの主敵がモスクワ大公国であることから、主戦力を投じての大規模な戦争にはならず、ウクライナの住民から志願兵を集めて民兵隊を組織して、更にその民兵隊がクリミヤ・ハン国の掠奪部隊を撃退しつつ、徐々にクリミア・ハン国領内に逆侵攻を試みる、というじりじりとした戦争に成らざるを得なかった。
(これは、1595年にウクライナを征服した後の女帝エウドキヤの最大の目標が、モスクワ大公への戴冠である以上は当然のこととも言えることだった)
そうはいっても、ローマ帝国側のウクライナ人民兵が装備する兵器が、基本的に質的にクリミア・ハン国の兵が装備する兵器を上回っていたことや、それなり以上に有能な指揮官(例えば、島左近や浅野幸長、大谷吉継ら)がウクライナ人民兵隊の指導に当たり続けたことから、ローマ帝国側が優勢な戦況が基本的に続くことになり、クリミア・ハン国は徐々に領土を失うことになった。
その結果として、10年近い戦争の末に1605年の秋の時点では、クリミア・ハン国が実際に統治しているといえる領土は、クリミア半島のみと言っても過言では無い戦況になっていたのだ。
(これは、クリミア半島を除くウクライナの大地では東方正教徒でスラブ民族の住民が圧倒的に多く、親ローマ帝国の住民が徐々に多数派になっていたという背景もあってのことだった)
更にこうなってくると、クリミア・ハン国と同盟しているオスマン帝国も流石に軍事介入を検討せざるを得なくなっていた。
これまではローマ帝国の正規軍が相手では無い以上、それこそクリミア・ハン国の掠奪行為に対する自衛の為に組織された民兵隊の自衛行動に過ぎないとのローマ帝国の(かなり無理がある)主張を、それなりに鵜呑みにすることで、クリミア・ハン国に対しては武器の輸出等による支援でオスマン帝国はお茶を濁していたのだ。
(これはオスマン帝国にしても自国の軍事改革が進捗中である以上、ある程度は止むを得ないことだった)
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