第70章―2
だが、こういったローマ帝国に対する貴族たちの叛乱軍による抗戦も、そう長く大きな規模では続かなかった。
何しろイヴァン雷帝時代以前から続くモスクワ大公国の外交的孤立という現実がある。
そのために、こういったモスクワ大公国の貴族を中心とする叛乱軍は外国からの支援がほぼ得られず、自力で抗戦せざるを得なかった。
もし、外国からの支援があれば、そこを安全な根拠地として抗戦が続けられたかもしれないが、そんなものは無い以上、自力で叛乱軍は戦うしか無かったのだ。
その一方で、ローマ帝国は、ポーランド=リトアニア共和国と友好関係を構築し、スウェーデン王国とは好意的中立関係にある。
又、オスマン帝国やクリミア・ハン国はイスラム教の国であり、聖地エルサレム等の関係から言えば、ローマ帝国の方が、モスクワ大公国よりマシといえる間柄だった。
だから、こうした点からも叛乱軍は不利だったのだ。
そして、モスクワ大公国は、それなりに遅れた国家と言わざるを得ず、武器にしてもマスケット銃を国内で生産するのが精一杯で、前装式ライフル銃さえも国産化されてはいなかった。
それに対して、ローマ帝国軍はボルトアクション式小銃を国産化して、前線の歩兵に配備しているという現実がある。
他の軍用機や戦車等にまで至っては、そもそも叛乱軍は保有しておらず、絶望的な武器の格差があるとしか言いようが無かった。
勿論、貴族達の叛乱軍にしても、こういったことは重々承知していて、ローマ帝国軍の武器を鹵獲しては使用したり、銃器の密輸入を図ったりしたが、とても前線の兵に行き渡らせることは不可能で、こうしたことから、正面から戦えば10倍の軍勢がいないと、叛乱軍は野戦ではローマ帝国軍に勝てないと言われる状態だった。
そのために叛乱軍は正面からの戦いを基本的に避けて遊撃戦に徹したが、この叛乱が長期化するに連れて、本来ならば有利な筈の叛乱軍の方が疲弊する事態が起き出した。
何しろ叛乱軍側にしてみれば、戦争の終わらせ方が見えなかったのだ。
永久に終わりのない戦いを続けるしかない。
そう考えるようになった叛乱軍の士気が低下するのも当然だった。
さて、何故に戦争の終わらせ方が叛乱軍に見えなくなったかというと。
モスクワを奪還して、モスクワ大公国内からローマ帝国軍を追い出して、モスクワ大公国を復興させる、ここまでは叛乱軍の意思は統一されていた。
だが、その後のモスクワ大公に誰を即位させるか、この点で叛乱軍幹部の意見が割れたのだ。
何しろエウドキヤの勅命により、リューリク朝の男系男子はモスクワ大公国内どころか、ローマ帝国やポーランド=リトアニア共和国の国内では族滅の悲運に遭っており、遠縁を辿れば中西欧に細々といなくもないという現状で、完全に外国人の君主を迎えられるのかという問題が生じた。
そして、リューリク朝の姻戚で有力な候補と言える筈のロマノフ家は、当主といえるフョードルが異端者として火炙りになっており、教会が異端宣告した者の血族をツァーリにできるか、と叛乱軍の幹部から総スカンを受けている状況である。
そうなってくると、リューリク朝の血を承けた女系男子が候補に挙がるが、その最有力候補は言うまでもなく女帝エウドキヤの長子ユスティニアヌスになる現実があり、それを外すとそれより劣位の貴族候補が争う惨状なのだ。
こうなっては、叛乱軍も内部分裂を来たすようになる。
そうなってくると、叛乱の中核を成している貴族達はともかく、貴族以外のモスクワ大公国の住民は先の見えない現実から、様々な伝手を辿ってローマ帝国に投降する者が増えるようになった。
その結果、1604年にほぼ叛乱は鎮圧された。
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