第9章ー12
「長門から陸奥まで馬車で行けるように」
更には、
「豊前、筑前から薩摩まで馬車で行けるように」
「讃岐、伊予、阿波、土佐の道路をつないで」
等々、様々な掛け声の下、この頃の日本全土の道路整備は徐々に進みつつあった。
最優先とされたのは、東海道と山陽道だが、それ以外にも北陸道等、京都を中心とする幹線道路網の整備が、国の主導で進められる一方。
それぞれの地元の事情に合わせた道路の整備が進みつつあった。
そして、その際にそれぞれの地元の事情に合わせた拠点整備が進むのも当然の話だった。
例えば、いわゆる東国、関東の地においては。
「やはり、鎌倉が政治的拠点に相応しい」
「伊勢殿が言われるのは、どうかと思うがな」
「わしは北条だ。しかも、名乗る理由がそれなりにある」
「他国の兇徒が何を言う」
「関東管領の身でありながら、関東公方を何度も攻撃した上杉家が何を言う。そういえば、朝廷の命令だから、と上野国司と引換えに、関東公方を京に送られるのにも協力されましたな」
「お前も協力したろうが」
「まあまあ」
将来の関東の拠点をどこにするのが妥当か。
北条氏康と上杉憲政が面と向かって、強烈な嫌味をぶつけ合い、里見義堯らが仲裁しながら、話し合いをする光景が、少し前に見られた。
上洛作戦における皇軍の武威を見て、東国の多くの諸勢力が速やかに朝廷への忠誠を誓ったということは、裏返せば、それなりの権威や力が東国では温存されたということにもなる。
そのために、東国における拠点整備においては、地元勢力の声がそれなりに強くなった。
(だからこそ、利根川の河川改修において、佐竹氏等が反対運動を起こすようなことがあったといえる)
(更に余談を付け加えれば、古河公方(及び、事実上滅亡していた小弓公方)の一族は、足利将軍家と同様に、朝廷の命令により、日本からオーストラリアに追放されている。
更に関東の諸勢力は、皇軍の攻撃を避けるための保身の一環として、その追放劇に加担した。
上記の北条氏康と上杉憲政の不穏な会話は、それが背景にある)
「皇軍の輩が、江戸を新たな東国の経済的拠点として勧めるのは分かる」
北条氏康が言った。
「確かにな」
上杉憲政もその点については同意せざるを得ない。
関東、東国全体を見回した際、今後の経済的拠点として考えるならば、更に異国、海外との交易までも考える以上は、海に面しているのは必須の条件と言ってよい。
更に利根川を中心とする関東平野の内陸水路との連携も、その経済的拠点には求められる。
(関東平野においては、内陸水路、いわゆる河川舟運を活用した物資の運搬が極めて盛んだった)
こうしたことから考える程、利根川の大改修が行われた後のことまで考えれば、江戸は関東一円の経済的拠点として好適な位置なのは間違いない話だった。
しかし、江戸に経済的な拠点に加え、政治的な拠点の地位まで与えるのが妥当かと言えば。
「どうのこうの言っても、歴史から言っても、鎌倉こそが関東の政治的な拠点に相応しい」
「宗教的にも鶴岡八幡宮がある」
「畿内でも、京と大阪、政治的拠点と経済的拠点の二つの拠点を整備しているのだから、関東でも同様にしていいのではないか」
「全くだな」
北条氏康と上杉憲政は、その点では奇妙に意見が一致してしまった。
更にこの場に集った国司や国司代の面々の想いも似たようなものだった。
勿論、「天文維新」以降の日本は、京の都を中心とする中央集権国家を目指している。
だが、面積はともかく、距離的には日本は広いのだ。
更に歴史的な経緯や災害対策から言っても、関東、東国に第二の首都的な街を整備するのは、当然の話と言える。
こうして、鎌倉は政治的な拠点として復活した。
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