第68章―27
ともかく史実(?)とは逆に、満州国ならぬ後金国が対外戦争を独断専行して引き起こそうとしているのを、関東軍ならぬ在満州日本軍が懸命にそれを制止する状況下に1603年頃から(この部では先の話になる)1607年頃まで続けることになったのだが。
その一方で、史実世界で言えば大慶油田、この世界で言えば北満州油田が、ヌルハチと上里清の会話を発端として1604年に見つかったことは、様々な波紋を徐々にだが、世界中に広げていくことにならざるを得なかった。
特に影響が大きかったのは、日本国内だった。
「皇軍」の知識に基づけば、満州の地には油田は存在しない筈だった。
それなのに世界でも有数の規模の油田が存在するらしいことが徐々に分かっていった。
(尚、更に先の話、具体的には十年近く先には最終的に規模に加えて、油質の問題まで北満州油田について確認された結果、実は量こそ多いものの、かなりの重質油が主体であることが判明し、アスファルト等には向くものの、ガソリン等の軽質油確保には余り向かないこと等が判明して、この当時、完全にモータライゼーションが進んでいた日本では、何とも微妙な油田という評価が国内では為されることになる)
ともかくそうしたことから、「皇軍知識」といえども、考えてみればこういった知識は必ずしも全てが正しくなかった。
実は鉱山や油田、炭田等の見落としがあるのではないか、ということから日本国内及び日系植民地内で積極的な再探査が活発に行われることになった。
そして、日本の動きを見て、北米共和国やローマ帝国でも同様の動きが起こり、そのほかの国にもそういった動きは波及していった。
その結果として、例えば、北米共和国ではアラスカの油田が改めて確認され、ローマ帝国においてはリビアで油田が発見される事態が起きた。
更には、それこそ1620年頃の話になるが、北海油田が発見されることになり、イングランド(この頃にはスコットランドと同君連合国になっていた)やデンマーク(ノルウェー)が、その恩恵を徐々に受けることになった。
こういった資源探査の動きが後金国外では活発化する一方で、後金国内では北満州油田の規模を確認等するための試掘が行われ、そのための人が集うことになった。
こういったことになると単に技術者を集めるだけでは足りず、それなりに大量の労働者を集める必要が出てくる。
そして、人が集まれば、それを目当てにした商人等が集って、更に人が人を呼ぶ事態が起きる。
後金国内の女真人の「戦う人」の多くが耕すこと、農耕に従事するのにはこれまでの人生経験から躊躇いを覚えたが、商業となると話が違ってくる。
何しろ狩猟採集を主にする以上、交易活動、商業も移動する中で自然と行ってきたからだ。
(皮肉なことに純粋な農業社会に傾く程、商業が軽んじられる傾向が起こりがちになる。
それこそ日本の江戸時代が良い例で、徳川幕府の方針もあったが農が商より上に見られていた)
だから、こういった流れに乗って、商人になって財産を築こうとする女真人の「戦う人」が徐々に出てくるようになった。
ヌルハチ等の女真人の指導者層の一部にしてみれば、「戦う人」の柔弱化と怒る事態だったが、大勢はむしろ望ましいと考えた。
それこそ最早、今の女真人の「戦う人」と「耕す人」に分かれている古代中世社会は何れは維持できなくなるのが見えている。
そうしたことからすれば、こういった事態に対処するために「耕す人」も戦えるようにしなければならない、という主張をして、分かれている現状の社会を近現代的社会に変えていくのには必要な事だとして、「戦う人」の商人等への転職をヌルハチらは奨励していった。
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